過去のVOICE 2004.4.1〜2004.9.30



(2004.9.29)10 years EXHIBITION ギャラリー彩園子I,II 岩大特美平成6年度卒業生による卒業10周年展。総勢17名の展示はプチ卒展という感じ。10年という区切りと位置付けるその意味を改めて考えたとき、見えてくるのは余計に”特美”というある意味特殊な環境であった?その「始点」ばかりな気がしてくる。もっと分裂していく姿を求めたい衝動にかられるのだが・・・。

(2004.9.27)MARIA PECCHIOLI EXHIBITION  マリア・ペッチオーリ展 gallery la vie フィレンツェから来盛したマリア・ペッチオーリさんは二十代の女性作家。人物を主題にした絵画を中心に日常のたわいもない風景をコントラストの効いた色彩の対比で切り取る。その構図は記念撮影風のものもあれば頭部のクローズアップや上下の反転、またフォト・モンタージュ風、ドラマ仕立て、どこか異形の人体、変装・・・と定型のスタイルを攪拌する。作品のほとんどに人物が登場しているのに、なぜかモデルに対する冷めた眼を感じる。皮膚感覚の希薄さと言うか。作品は具象性を持ちながらも描かれている対象とは距離をとる。そうした絵画としての佇みが、デジタライズされたかのような静止した時間の中で、真実の不在を暴きながら、一点一点というよりも総体で「絵画」そのものの不確実性をついているようにも思える。10月9日まで(3日休廊、最終日5時まで)

(2004.9.25)佐藤純-重層0-展 湯本美術展示館 ”重層”というテーマで抽象絵画になってからかなり時間が経過した。それ以前の作品を盛岡市内での発表で一、二度目にしたが、音楽の調べを感じる”重奏”というイメージだった。現在のような抽象を予感することは出来なかった。しかしマチエールへのこだわりや構成的な緻密さは今も変わらない気がする。0号だけ36点と木のレリーフ1点というシンプルな展示はかえって作家のピュアな感覚が伝わる。ゼロ号もいいサイズであるなと思わせる。下絵に和紙をしわをよせながら貼ってテクスチャーを準備しては絵具を薄く塗った作品群など作品は平面性を保持しながらも不可視の奥行に向かう。26日まで
 岡田卓也 展 盛岡クリスタル画廊 岡田さんは発表がこのところ続く。アクリル樹脂の中に昆虫や花、絵具、塵や雨まで封じ込めた柱状のオブジェ多数。ずっとここ数年継続しているが、今回が一番、アクリルの中に混入させるもののバリエーションが豊富。油絵具によるタッチが積み重なって計算された螺旋を見せるものやわざとスリガラス状に表面を処理し、判然としない色と光を浮かび上がらせた作品など面白い。透明性と一度樹脂を流し込んだら取り出し不能な密封性という異なる関係に意識が向かう。シュールレアリズムの作家達が好んで用いた蝋のもつ「死」のイメージや60年代にアッサンブラージュの格好の材料として透明アクリル樹脂が使われたことなどどうしても思い出すが、単純に記憶の断片を封印させようとしていないはずである。10月10日まで

  
(2004.9.23)リアス・アーク美術館開館10周年記念展 リアス・アーク美術館 平成6年10月開館から丸十年。リーフレットのあいさつ文にもあるように10年前の「バブル」と呼ばれた時代に「生み出されてしまった施設」(リーフレットより)という形容はその後の地方美術館の継続の難しさを象徴的に表現しているように感じた。しかしこの美術館で行ってきた展覧会は地味であっても気仙圏という美術館の立地としては決して利便性のよくない条件下、善戦してきたと思う。どうしても仙台からも盛岡からも150キロ近くあり、高速道からのアクセスも悪く気安くは行き辛く見逃した展も数多い。今回の展示はダイジェストではあるがこの美術館と関係のあった作家について近作(ほとんどがここ一二年の作品)で一覧出来ることはいい点であるが、展としては作品が干渉し合い、特に平面は窮屈な印象を与える。全館使った展示は出来なかったのだろうかとか勝手に思うが、美術館の抱える目には見えない苦労もあるのだろうと推察する。ただデッドスペースが気にかかることと各作品に付けられたキャプションが何と言っても見づらい。少々迷路のようなパーテションに監視員一名?なため鑑賞者が移動すると監視員もポジションを移動するのは・・・。10月2日、3日に10周年記念フォーラムとして教育問題や美術館のあり方等についてのシンポジュウムや舞踏公演も予定されている。10月24日まで

(2004.9.19)太田美知 個展 GALLERY NOVITA ノスタルジア・海 テーマをだぶらせて観るのも単に部分を凝視したり、全体をうんと離れて眺めるもよし。点数を少なめに抑えていることが建築空間も含めて作品が作家の蒼の想いへと繋がる窓に成り得ているように感じる。23日まで
 あおもり版画トリエンナーレ2004展 青森市民美術展示館 青森市制100年記念事業「あおもり版画大賞」(1998年)から数え三回目と聞く。版画に絞った公募展は他の地域でも開催されているが、ついに?青森市でも本腰を入れてきたということだろう。しかし今日の表現における「版画」的表出は、こうして出品作を観ても従来の表現形態の違いによる区分けでは難しい局面にきているのは事実であり、あえて今、「版画」を標榜することには棟方志功のふるさとだからだけでは逆に「版画」をこれまでのしきたりや慣習の中に囲ってしまうことはなかろうか。あおもりではその違いを出して欲しいし、今回のエントリーの内20−30代が6割という点や決して木版に偏っていない点などまずは周知がされていることは感じるが。ただどの公募展にも同様に作品の多くがややつくられ過ぎている気がする。どうしても規格(出品の際の条件や版画の場合物理的条件が伴う場合が多いのだろうが)に収めることによってか均一で型にはまった印象を受ける。技術的な高さよりも、個々の「版画」的思考の眼と今日における表現としての有効性に期待する。その観点から予想からそう外れない印象とテクノロジーを含めた版画領域の拡大(どう折り合いをつけるか興味深い)を感じたことは確かだ。
 土屋公雄 展 記憶のエレメント〜沈下する時間 ACAC 土屋公雄は同世代の作家だ。ずいぶん前に銀座のモリスギャラリーでの展示をすぐ側の村松画廊や鎌倉画廊に行きながらのぞいたものだ。当時はどちらかと言うとネイチャーアート的に見えた。また朽ちた木を集積させて見せたりした作品にはどこかトニー・クラッグやリチャード・ロング等の影響も読み取れた。当時の作家の多くはバブル後、その作品のスタイルを余儀なく変更させられたり、発表の場を失ったものだが土屋さんは上手く状況を取り込みながら(大きな震災など)展開し続けている。今回のACACのインスタレーションも三つの異なる空間(+ビデオブース)に巧みに作品を並べている。「記憶」であるとか「沈下する時間」といったワードから見えるのは、生身の人が一生の中で通過するエレメントであり、限られた生の時間をさらに凝縮させながらも下降する(「落下」)「死」のイメージだ。いくつもの家具が落下して砕けるスロー撮りによるビデオ映像によるインスタレーションにはこの作家の言わんとしていることが実に象徴的に表れている。各地?で集められた動いていただろう最後の時刻を刻んだ柱時計を縄で結び空中にぶら下げ、場所と時刻を記した(壁面に沿っている)作品など、ややコンセプトが見えすぎる気もしなくもないが、以前の木や石といった自然物だけではなく人が創り出し、人の一生とだぶるかのように消滅していくモノに視線を広げたことでバリエーションに確実に幅が出来た。前から思っていたがこの作家からはいい意味でのデザイン性を常に感じる。たしか美術出版社から出ているカタログレゾネがとてもいい。9月26日まで

(2004.9.14)南舘麻美子展 諄子美術館 盛岡生まれ相模原市在住の南舘さんの発表。ミクストメディアによるユーモラスな人間とも動物ともいえる立体作品と同じキャラクターが登場する日本画の技法により描かれたと思われる膠絵。頭の大きな人物はちょっとナラトモにも通じないでもないが、妙な脱力感をともないながらもしっかりと存在する。ミクストメディア、木版リト、膠絵・・・表現は多彩だが、決して思いつきやイラストに終わらないしっかりとした技術力が見てとれる。平面も立体もいい。9月19日まで。
 畑山昇麓コレクション展 松本竣介を支えつづけた友人 萬鉄五郎記念美術館 松本竣介と共に生き、独自の鑑識眼で竣介を支えた畑山昇麓のコレクションによる。竣介作品のコレクションを持つ神奈川県立近代美術館や本県も氏のコレクションの基礎があって今日がある。これは竣介に対する深い愛情と亡き竣介を顕彰する強い志があってこそである。コレクションは竣介はじめ日本の近代美術作品が並ぶ。澤田哲郎「荷車引き」は時代の憂鬱と竣介とも共通の眼差しが感じられる。また同時代の身近な作家のコレクションも多く含まれ親しみが持てる。10月3日まで。
 スガワラキヨミ展 ギャラリーLa Vie 菅原清美さんは今年発表が続く。3月に萬鉄五郎記念美術館で一緒に展示したばかりだが今回も新作が並ぶ。基本的には大きな変化には見えないが、微妙に変わりつつあるようだ。それはスキージーで綿布にすりつけた絵具の様相にどうも意図的なモチーフが見え隠れする点である。それまでの自由の効かない方法の選択から描線のようなものまたは塗りつぶしともとれる部分が微かに感じられる。縦方向のスキージーの動きは横方向に移行し、絵具のとどまりが観る側にわずかな時間を与え始めているように思われる。 25日まで
 杉本さやか展 ギャラリー彩園子 動物や小鳥、身近なモチーフがバックはフラットに塗り込められた画布上から浮かび上がる。スズメやヘビといったさもないモチーフもとてもあたたかい眼差しで描かれている。特に小鳥の目に作者の動物への愛情が感じられる。

(2004.9.12)Oh水木しげる展 岩手県立美術館 県美で水木しげる?という?は観てからにしよう。全国の美術館では従来の展覧会では考えられないテーマの展が最近目立つ。本来の美術館(Art Museum)のMuseumに込められた意味(広い意味での学芸)からあまり美術を枠で囲みすぎるのも閉塞をまねくのかも。それにしてもあっぱれな展示。さぞ展示は大変だっただろう。出品点数1000点とかで県美の巨大な企画空間をしても狭さを感じる。後半はやや押し込めた感じさえするが、その物量=仕事量+好奇心には驚かされる。普段あまり漫画に縁のないものからすると絵を描く上手さとその速さには、絵描きのそれとどこかで比べてしまう。初期の絵本原画などに見る洋風な趣向がその後のユーモアに富んだ妖怪世界に変化していく過程が興味をひく。そこには戦争という水木もまた人生を翻弄された深い溝が世界観を変えたのだろうという想像が立つ。会場の中でなそう目立たないところにあるサイレントショックシリーズという4ページで起承転結を表した台紙のない漫画は、作者の鋭く無駄のない観察眼が圧倒的な技量で目を釘付けにした。また「妖怪道五十三次」(歌川広重の東海道・・・からくる)など、過去の日本美術とサブカルチャーの合体のような村上隆っぽい?ことも、「アート」とか言わずにさりげなくやってるところはちょっと面白い。

(2004.9.11)楽しむ空間・一歩前へ! 宮城県美術館 出品作家は廣瀬智央、クリスティーナ・クービッシュ、松井紫朗、祐成政徳、ピーター・フォーゲルによる。そういえば松井紫朗の作品は80年代からメディアにも出ていて、作品も時々見た記憶があるが、最近は形態こそ近いが素材的にはバルーンのような柔らかい方向になったのか?。5人の作家とも鑑賞者の積極的な参加によって作品が成り立つ点において展のテーマをあらわす。見る側が作品を通して「空間」の変化を体感できる。つまり何かが変わることのきっかけをアートが担い得ることを感じさせる。廣瀬智央の既成のテントを用いた作品は暗闇にテントの明かりが幻想的でテント一つで美術館の空間がこうも変わることをわかりやすく見せる。クリスティーナ・クービッシュの会場に敷きつめたケーブルの電磁誘導場による音を聴く作品なども楽しめる。

(2004.9.10)千葉孝子 展 ギャラリー彩園子 現在フィレンツェ在住の千葉さんはもともと書道をやられていたそうで厚手の手漉き和紙を剥がして貼り合せ、偶発的に生まれる和紙のマチエールを生かしながら細い墨の線を描き込んだ「ある水の道」や他のドローイングも東洋的なイメージを抱かせる。しかし和紙を使い墨で描いたのでジャポニズムとか東洋思想とかいう類型化にはあまり興味がわかない。作品からは絵画であることにこだわりはあまり感じられない。より直接的に画面のテクスチャーは作用しているように思われる。「ここに存在することは確か」というテーマ(会場に貼られていた新聞記事でわかったが)は、フィレンツェで実感した精神の変化なのだろうか。
植田渓 展 ギャラリー彩園子II 岩手大芸術文化課程造形コースの4年生とのこと。銅版画とペインティングによる。アクリル画は少々違和感を感じるが、版画はドライポイント、アクアチント、ソフトグランドエッチング・・とさまざまな試行錯誤の過程が見られ、作者はこれから何処に行くのか興味が持てる。

(2004.9.8)ジャパニーズ・モダン展剣持勇とその世界 秋田市立千秋美術館 戦後建築における日本のモダニズムの興隆の中、建築とインテリアデザインを多くの建築家との共同作業によってトータルに結びつけたパイオニア剣持勇(1912-1971)の初期からの仕事を紹介。イサム・ノグチ、イームズ、猪熊弦一郎、渡辺力、豊口克平(秋田県出身)らの同時代の仕事とも合わせて展示。現代の60年代ブームもモダニズムの隆盛を築いた優れたデザイナーの仕事があったからこそである。日本において家具デザインがまだ民芸品としての範疇にあった時代、ドイツから来日していた建築家ブルーノ・タウトの教えもあって、デザインを芸術にまで高めたその功績は大きい。現在のファッションとしてのテイストとは違ってプロダクトデザインによる(量産化を目的とした)原型の展示はまさにオリジナルでありアートそのものと言える。

(2004.9.5)N2スタジオライブ 2 イワテマンダケ《SHIZUKUISHI会議-4つの報告展》 山々からの、季節の深い呼吸の歌が聞こえる。 四人の作家による構成だがスタジオ(会場)の広さから個々の仕事を独立して捉えるにも、また相互に連関させても観る側の呼吸にゆとりがある。小野嵜拓哉、菅沼緑、新里陽一、前田直樹の各氏による。小野嵜さんは200号の平面で無化の過程から浮かび上がる絶対性を、菅沼さんは木のレーリーフで素材の特性とかたちの一致を、新里さんは壁面レリーフとドローイングでシャープにシェイプドされた記憶の残像を、前田さんは塩ビパイプによる思考の構造図をそれぞれ感じた。9月26日まで。(火曜日休み)

(2004.9.4)清原健彦展 善にむかうための架橋演習 ギャラリー la vie 神戸市在住の清原氏の盛岡初展示。DMには軍服を着て(ぱっと見は判然としない)厳しい面持ちでしっかり前方を睨む男のポートレートが水平線で三分割され、さらに垂直にそれぞれ三分割され横一線に並ぶ。そして訝しいサブタイトルとくる。正直うさんくさい。ちょっと危ないかなと思ったが、作品は大きく裏切った。というより巧妙に計算された先制攻撃か。作品は意外にも絵画によるインスタレーションというかインスタレーションによる絵画(それじゃわかんないか)だ。DMに用いた軍服を着た作者の写真を40×25cm角の貼れパネ(片面シール状の発泡スチロール板)をメタルミーというミラーシートで包み、15×15枚(6M角)組み合わせた上に油彩で自身の軍服姿を描いている。さらに今回は水平線で三分割し、各壁面に貼り付けた。印象としてはDMに見る実写真のリアルさは拡散し、部分的には山水画を思わせるような穏やかささえある。ミラーによる効果は新鮮にも思える。この素材だから従前の絵画とも写真とも距離を取れるのだろうか。ふとサブタイトルの事など忘れていたが、これは善に向かうための逆説的なプラクティスか?軍服には独裁者の姿が重なる。そして本人も絵画を通して身体を”内側”に入れてパフォーマンスしているということだと思う。会場で出会った作家本人は実直で真摯な態度で作品を説明して下さった。これもまた幸せな裏切り?。

(2004.9.1)光と色・想い出を運ぶ人 有元利夫展開催記念講演会「有元利夫の人と作品」、ギャラリートーク 盛岡市民文化ホール・小ホール 今日から始まった有元利夫展オープニング。有元容子(有元利夫夫人)さんの講演は没後19年という時間の経過を感じさせず、たった今までそこにいた有元を語るかのようで、断片的に知っていた有元利夫がひとつの像を結ぶかのようだ。音楽を愛した有元らしく盛岡市民文化ホール専属オルガニスト吉田 愛さんのパイプオルガン演奏も素晴らしい。今回は油彩に素描、版画、立体含め約130点という充実した展示。昭和62年、有元没後2年目にカワトク6階催事場で開催された展以来の同市では大規模なもの。そのときの印象は今でも覚えているが、今回は違った角度で有元作品を見ることができた。そしていま<現在>という時代の中で見えてくる(失われない)有元像とは何かに興味が向かう。有元作品には卒制「私にとってのピエロ・デッラ・フランチェスカ」にも見られるはっきりとした古典回帰が認められるが、多くの作品に出てくる人物の宙に浮いてるかのような定まりのわるさと腕の表現に見られるまるで脱臼しているような離脱感、または浮遊感覚には有元の独自性と現代性が感じられ今なお不思議な魅力をたたえる。観終わったあとでもどっかにひっかかって残る。”人物に完全なポーズをさせ表情豊かに描かないことの方が多くを表しているのだという”(そんな感じの有元作品に対する芸術新潮の中のコラムだったと思う)舟越桂の言葉が印象に残っている。舟越桂の山のような大きな胴体と同じような表現を有元は行っていたのだ。その点についても桂さんは有元に似すぎないことを考えたようだ。
9月26日まで(月曜休館 20日は開館)。
 

(2004.8.31)駒井哲郎 展 MORIOKA第一画廊 1950年代から60年代、70年代と独自の”黒”の表現の変遷がうかがえる。闇の中に息を潜める光の粒子があってこそ闇はグラデーションを増す。小さな幻影(1950)、消えかかる夢(1951)、げんこつ(1966)など。ほか一部常設展示。

(2004.8.28)トップページに1984年ギャラリー彩園子での個展の際、会場に流した音をUP。

(2004.8.25)阿部 龍一〜女神たち〜展 ギャラリー彩園子 F100号のキャンバスが会場にすき間を与えず並ぶ。すべて化石化したかのような物言わぬ女性の胸像が机上に決まって左側を向いて定型的な構図で描かれている。手慣れた手法も人物以外の小物(モチーフ)もとても絵画的におさまって見える。それはマテリアルや空間が巧みに表現されても受ける印象なのだ。この感じは類型化された一種のパターンに見る安定とどこか踏み外した何かを求める見る側の思いからなのだろう。

(2004.8.21)華麗なる17世紀ヨーロッパ絵画 秋田県立近代美術館 16世紀後半から17世紀にかけてヨーロッパ諸国に広がりを見せたバロック文化は18世紀まで続いた。展示はレンブラント、カラヴァッジオ、ヴァン・ダイク、ベラスケス、ロイスダール・・・と美術史上重要な作家が名前を連ねる。作品の特長は深い暗部と光の表現が対照的で、そこには当時、大衆の心をひきつけた物語性と宗教性が劇的な効果を伴なって迫りくる。平面でありながら舞台の一場面を見ているように、見る側を惹きつける。レンブラントとベラスケスの自画像も十分に見せてくれる。また新教徒の多かったオランダは祭壇画などを教会から追放し、他の国々が宗教画の隆盛を見るのに風景画や肖像画に人々の関心が集まったという違いも興味深い。言葉では知っていたつもりの「バロック美術」がここでは個々の作品について作家説明と作品説明がたいへん丁寧にわかりやすく付けられており出品作品を収めたカタログと合わせて充実した企画と言える。8月29日まで。

(2004.8.20)空・日・生・吹・瞬 岩大特美卒業生展(H4年度入学 絵画2・版画) プラザおでって 5人の岩大卒による展示。五分割されたDMの印象からは写真と絵画とインスタレーションの区別はなんとなくつくものの共通した何かが感じられなくもない。ただ展示からは手法や種別という意味ではない五人の表現としての違いまたは共通した時代性もあまり見えてこない。ここでも既視感がつきまとう。高橋さんのインスタレーションは障子で四方を囲い暗箱を作り外側からプロジェクターで小画面を投影し、見る側は2畳ほどの畳が敷かれた空間の内部から映像を見るという仕組み。親戚の方なのか身内なのかわからないが、質問に答えるようなスタイルで戦時中の体験談を語っているようだ。ノスタルジックな空間と風化する記憶がシンクロするかのように。8月22日まで。

(2004.8.18)エリック・カール 絵本の世界 展 萬鉄五郎記念美術館 「はらぺこあおむし」(1969年刊)はあまりに有名な絵本のロングベストセラー。知っているようで知らないエリック・カールの世界を原画とともに使用道具の展示から技法の解説まで立体的に構成。原画の美しさがまず目に飛び込んでくる。それは絵としての技量というよりもとにかくディテールが美しい。氏の言葉に絵としての全体よりも筆づかいや部分部分に興味があるといった意味の箇所があったが、ティッシュペーパー(日本のおなじみの紙質より、吸水性が弱そうな)に何層も色をかけ、裁断したものを原画の描線に合わせてコラージュする独自の手法は、”描く”ことが表面に現れる細部に左右されていることを物語る。原画を見てから絵本を手にするといろいろ見えてくる。家にも「ジャイアント 巨人にきをつけろ」などの絵本があった。8月22日まで。
 椎名 澄子 展 リアス・アーク美術館 東北を中心に活動する若手作家を紹介するN.E.blood21シリーズの一環。このシリーズも地道にきちっと作家、作品を紹介するので好感がもてる。今回は北海道生まれで北海道に在住の椎名さんの作品。何の先入観なく作品に出会うことも時には重要である。作品は主にテラコッタで焼成された表面の硬そうな樹木や何かの植物の部分と、小人のような人体との複合、または人体のみのものもある。印象的には広い空間にうまくインスタレーションされた現代美術という様相。しかし細部に目をやると流木のようにも見える木が丹念に手で作られたものであったり、見え隠れする人体(または部分)がその部分だけ妙にメルヘンぽく思えたり、不思議なずれを見る側に与える。やや人体が説明的過ぎるきらいがあるようにも思えるが、”自然”という大きな摂理の法則の中にいる生きるものすべてに対して、表現としての言葉を選んでいるようにも見える。 9月20日まで。
 高畠 華宵 展 高畠 華宵大正ロマン館収蔵作品による リアス・アーク美術館 8月29日まで。
 千葉 勉 展 けやきラウンジ 千葉勉さんの水彩、ガッシュを中心に油彩も加えた内容。今回は特にフランス、ディーニュ・レ・バン市にある地質研究所(正確に控えていませんので、やや不正確かも)のパンフレットブック?に掲載された挿絵の原画が中心。アンモナイトがモチーフだったりフランスの郊外の風景など、新しいモチーフにも画風は変わらず、特に風景や建物の巧みに余白を生かした描写が目をひく。

(2004.8.15)常設展 秋季展示 岩手県立美術館 常設の展示替えは毎回新たな発見があり企画展とちがった楽しみがある。今回は村上善男の初期作品と松橋宗明、三代高橋萬冶、内藤春治、13代鈴木盛久、鈴木貫爾と続く岩手の鋳金の歴史が会場の中央に一列に比較的照度を高く展示され目をひいた。村上善男の作品は極めて若い時期の北の風土から生まれた心象風景がまず並ぶ。当時湯本(岩手)で、見た風景に単に感傷的に浸るのではなく、鋭く反骨心を持った孤高の精神は岡本太郎の影響からでもあろう。 

(2004.8.13)レゴ博in APPI レゴブロックの大規模な展示会。入口には入場者2万人突破の看板。うーむ、レゴ人気か夏休みの行楽とマッチしたのかほとんど子ども連れ。内容はレゴブロックの歴史コーナー、世界の名所を再現したコーナー、スター・ウォーズからハリー・ポッター、最近のいわゆるキュービックブロックではない(2001年かららしい)バイオニクルシリーズ(これは今の子どもたちには人気が高い)、プレイ・コーナーとまずまずの充実ぶり。子どもにとって可能な最良のおもちゃという基本思想は変わらず、大人も含めて多くのファンを持つ。新シリーズに見られるキュービックブロック離れは気にかかるが、創造力を養うことに、最近はストーリーとアクションの創造が大きな意味を持ってきてるようだ。つまりよりバーチャルな方向に。キュービックなブロックから学んだことは大きかったと思う。最小のユニットからあらゆる構造物を連想し、子どもながらに設計から実現できた。デジタルな発想も基本はここにあった気がする(初期のインベーダーゲームを思い出した)。しかし最近はそれにも限界が見えてきたのかもしれない。レゴがどこに進むのかは興味深い。

(2004.8.10)田代 耕司 展 紙の動物園 石神の丘美術館 ペーパークラフトの作家である田代さんの展覧会。田代さんの作品はもう20年近く前から知っていたし、授業のネタとして使わせてもらったこともある。そのことを最近別の展でのオープニングで話すと苦笑された。作品は一枚の帯状の紙から作るORIMALS(origamiとanimalsをかけた)が有名でオリジナリティが高い。どうしてもポップアップものは茶谷氏(東京工業大学教授で「折り紙建築」の著者)が有名でその後にやっても認められにくい。田代さんはそのあたりをシャープな形でシンプルに見せる。自分だったらこういう展覧会は難易度の高い作品も組み入れるだろうが、田代さんは実に簡単なしかけで難しくしない。きっちりその辺をわきまえているということだと思う。

(2004.8.8)インシデンス・オブ・カタストロフィー Gary Hill/1987−88年・44分 アート・シネマ上映会&講演会「映像アートの魅力」 岩手県立美術館 県立美術館ではアート・シネマの上映にも力を入れているが、今回から講演会も行い映像作品に対する理解を深めるのがねらい。講師は岩手でもおなじみ?の西村智弘 氏(美術評論家、映像作家)。個人的にも東京で二度個展を開いた工房”親”でオープニングにてお会いしたり、県芸術祭の現代美術部門の審査員を三年されたので何となく親しみ深い。内容はアート・シネマというちょっとディープな内容ながら、ゲイリー・ヒルはともかく?他紹介された作家はビデオ・アート、フィルム、実験映画、アンダーグランド映画、自主制作映画・・・等正確に区別のつけがたいジャンルの作品を技術的な面に着目して、コンピュータ処理が行われない手作業による実験的フィルムやアニメを中心に見せたことで意外と?分かりよかった。CG処理が主流の昨今、何もないところからでも映像作品が十分作り出せることを改めて気付かされた。

(2004.8.7)このところの暑さにPCがダウンしそうだ。職場でも数台のPCが暑さのため壊れたと聞いたが、ディスクトップでもない、このdynabookはちょこちょこ電源もおろしているし関係ないと思っていたが、さもないアクセスにもビジー状態が続きそのままフリーズする回数が増えている(次の動作に極端に時間がかかり処理しきれない状態)。放熱も上手くいかないのかファンがうるさく回ってばかりで本体もすごい熱。今年の夏はPCにとってもつらい。

(2004.8.6)橿尾 正次 展 ACAC 帖紙(ちょうがみ)と呼ばれる和紙と針金による立体造形はペーパーワークを代表する作家らしく変幻自在にそのかたちの可能性を見せている。実に熟練の技であり、それがどこか工芸的に思える。それは広い展示空間を十二分な量の作品で埋め尽くした均一な量がもたらす整然としたイメージからだろうか。手漉き和紙というデリケートな素材が柿渋や他の染料によって鉄板の表面の強度のような印象を時に与えながらも実に壁面や空中に軽やかに泳いでいる。作家は「ラクガキ」と表現するイメージが素材と実によくマッチしかたちとなっている。 8月15日まで。
 隣の公立大学のホールに、去る7月31日・8月1日にACACで行われた版画によるワークショップ(空想の森 講師:橋本尚恣)作品が展示されているというので覗いてみたが残念ながら今撤去したところだった。

(2004.8.4)小笠原卓雄 展 Integral.series−H ギャラリー彩園子 Integralシリーズもずいぶん長いし、これだけ一環した仕事は岩手でもめずらしい。このところの作品は光を使ったインスタレーションだ。卓雄さんの作品の特長は極端に手の跡(表現におけるまよいのようなものも含めて)を残さない潔癖なところだ。自分が現代美術に興味を抱く以前から岩手で発表していた。使う素材や作品形態に変化はあるものの受ける印象は変わらないし、タイトルのintegralという数学的なワードも早くから変わらない。物と人の行為との間にあるものを空間にはたらきかける仕事は70年代から継続されているが、近作は植物や光という命あるものに向かっているようだ。出品作は学校の生徒用椅子が背板と座板を外された骨の状態で16個床に置かれ、それぞれの内部に蛍光管電球がひかれている。そして列ごとに真っ白な綿布が掛けられる。放たれる白い光は無機的でもあるが、何かひっかかる、何かを宿した光(または絶えゆくものの残像)に見えてくる。
 岩手美術選奨受賞作家展 VOL.4 平成15年度受賞作家による プラザおでって 県美術選奨も相当な回数になる。私も平成元年度に受賞したので、それから15年も経ったことになる。そして2000年からは受賞作家展も行われ、改めて作家と作品にふれることができる。ジャンルの異なる作品を一つの空間で見せるのは難しそうだ。実際デザインに具象彫刻、ペーパークラフト、インスタレーションでは。ただ四作家それぞれの持ち味と作品の展示の仕方が興味をひいた。 

(2004.8.1)近藤 克 展ー紅白図ー 盛岡クリスタル画廊 最終日。岩手大学教育学部芸術文化課程造形コース教授。なるほど出品作品はレッド系とホワイト系に分かれる。そのしぐさの軽やかさは筆致の滞りがなく、滴り落ちる絵具からアクリル絵具も併用かアクリルと思ったが、油彩という。画面は全くの抽象に見えるが、画面に走る直線の帯が画面に緊張感とともにある規定を与え、それまでは画面の上下左右さえ定まらぬ流動的な筆致が、留まることを与えられるように見える。チタニュウムとカドミュウム系のそれぞれの色が主張し過ぎずに、確かに定位して感じられる。最近の作品?(レッド系)は曲線的なフォルムの連なりが新鮮に思える。
 それにしてもこの暑さには制作も思考も遠ざかってしまう。

(2004.7.22)先日PCでアナログ音源をデジタル化するためのコンバーター(変換機)を購入してしまった(大げさだが限られた目的以外には必要としない)。購入の際、選択肢は数タイプあったがちょっと高かったWin/Mac対応のものにした。どうも家のプレーヤーの針が拾うノイズやカセットテープの音までデジタルにする必要もなかろうと気が乗らなかった。しかしアナログ音源をCDに焼けたらというアナログ盤のレビューまでこのページに載せているものとしてあるまじき行為?でもあるが、永久保存の方法として、また変換機にはノイズ軽減の機能もあるだろうから多少は期待しよう。アナログプレーヤーからのLINE入力とウォークマン等からのピンプラグ入力と配線も変わってくるし、アンプを通す必要がないのか等検討して、少し慣れたら’82年のギャラリー彩園子での個展の際会場に流した幻のテープ?(体育館にあったピアノで一発録りした)をデジタル化して、このページに貼り付けてみようか。

(2004.7.18)「パリ/マルモッタン美術館展 モネとモリゾ日本初公開ルアール・コレクション」 宮城県美術館 マルモッタン美術館はモネの「印象日の出」を所蔵することで有名だが、今回1996年に寄贈されたルアール・コレクションを中心に日本初公開の印象派の旗揚げに一役を担った女性画家モリゾを紹介。モリゾについては今回詳しく知ったが、ルノアールでもモネでもない折衷した魅力を感じる。油彩もいいが、グアッシュであろうか水彩は瑞々しく魅力がある。基本的には余白の使い方が上手く、描きすぎた油彩もあるが、描かれていない部分に当時流行した浮世絵の影響か東洋的空間感を感じる。また今回初公開となったモネ最晩年の白内障を患い失いゆく視力で荒々しく描かれた油彩は、岩手県立美術館でのモネ展に出品されていた日本橋をモチーフにしていた作品よりも視力の衰えが感じられ、もはや抽象に向かっているようにも見える。7月19日まで。  

(2004.7.14)中国からの教育視察団の一行6名が岩手大学見学の前に本学を訪れた。急な日程で我々も何の気の利いた対応ができなかったが、昼食をとりながらしばし懇談。通訳がなければ全くコミュニケーションがとれない歯がゆさ。しかし一行の中に日本語教育担当者がおり、またその御子息が岩手大学に留学されていることもあり、息子さん含めた三人の通訳を介してほぼ正確にわれわれの話や思いも伝わったようだ。こうして本土を離れて研鑚を積んでおられる方々や訪問団の意識は我々の想像以上に高く、一人っ子政策もあってますますエリート化が進んでいるように思える。日本人には言葉の壁の問題が大きいが、彼らには言語を含んだ異文化に躊躇なく貪欲に順応しようという力強さが感じる。

(2004.7.7)盛岡彫刻シンポジウム 企画展 ギャラリー彩園子I,II 同シンポジュウム30周年記念ということで岩手大学の彫刻科が中心に息の長い活動を展開している。見る側としても安定して作品に向かえるので恒例行事という感じで安心できる。ただ思うのは所謂「彫刻」という切り口が普遍なものなのかというひねくれた思いだ。今回も出品作品はその技術と表現が合致し、十分見せてくれる。だが白御影石がこの地と深いつながりがあるとか、川のせせらぎが聞こえる水の街だからテーマが”水”というのも分かるが、そうしたキーワードから生まれる「彫刻」作品は想像の域を越えてくれない気がする。どうしても「彫刻」であることで作品がそれ以上のものにならないで納まっていることがいつも気にかかるのだが・・・・。
 常設展示 MORIOKA第一画廊 沢山の作家の作品が並ぶ中、村上善男の50年代、60年代、70年代と移り変わる作品コレクションがある。注射針によるレーリーフと注射針を型にしたスパッタリングが並び興味を引いた。また50年代のドローイングにも見たことのなかった意外な一面が。また矢野茫土という作家について上田さんに伺う。
 アルフォンス・ミュシャ展 もりおか啄木・賢治青春館 副題は文芸雑誌「明星」と啄木への影響 アール・ヌーヴォーのスタイルをよく表すミュシャの作品は日本の明治浪漫主義文学の意匠(デザイン)に大きな影響を与えた。「明星」(与謝野鉄幹主宰)においても随所にアールヌーヴォーぽさが見られる。あの啄木も詩集の装丁やその広告にそうしたスタイルを使用していた。ところでミュシャだが会場の雰囲気とも合って美しい。よくこれほどまでに装飾的で甘美な世界を描けるかと思うが、植物的でつたが絡まるような流麗なラインと特長的な共通した太い輪郭線は完全に当時の意匠(デザイン)であることを伺わせる。思い出したがプログレッシブロックのイエスのアルバムデザインはどこかアールヌーヴォー的です。1985年11月岩手県民会館で岩手日報社主催 ミュシャ展が大規模に開催されたので岩手でも馴染み深い。当時のカタログ、チケットは今もある。

(2004.7.3)木とのふれあいワールド パート2 秋田県立近代美術館 木と日本人のくらしをテーマにここでは素材としての木を用いたアートの側面を紹介するのではなく、木に依存してきたわれわれ日本人のくらしが、近年急速に変化し、木が特殊なもの扱いにくいものとなってきていることを、多くの木材見本や木を用いたプレイコーナーを通して気付かせてくれる。そういえばOA機器、車や携帯電話、高層建築・・・われわれのまわりにある便利なものはほとんど木で出来ていない。日本人が伝統的に木との生活の中から培ってきた「作法」や「技術」、また「感性」といったものがわれわれの生活から抜け落ちてしまったことを改めて感じる。その変化のスピードは振り返ることをも忘れさせる。派手ではないがこういう展示活動も広い意味での美術館の役目となるのだろう。

(2004.6.28)小枝繁昭 展 盛岡クリスタル画廊 1953年京都市生まれの小枝氏の作品はメディアや展覧会を通して90年代の初め頃、よく目にした。たしか日常の卓上静物をファインダーから覗きながら、レンズとの間に立てた透明アクリル板にペイントをほどこした後、実物部分の実写と絵画を融合させ、ネガから色分解しシルクスクリーンにした作品は興味深かった。特に意図的に平面性を強めながら実写の三次元感覚との差異が不思議なズレと浮遊感を生んでいた。今回の作品はラムダプリントとのことやはりデジタルな出力にその後向かっっているということか。ここで好みは分かれるのかもしれない。作者の息が伝わってくるようなペイント部分の筆あともデジタルに変換され、実写部分の巨大な花の拡大写真と同価なデータとして扱われる。だからどうかって言われても、その表面に立ち現れる手触りの違いはとても大きい気がする。デジタル印刷技術と氏独自のコンセプトが、ベストな状態で結びついているのか、写真部分に以前ほど隠されたものがないように感じ始めると、余計に十数年前の氏の作品をもう一度見たくなった。 7月4日まで。

(2004.6.27)ゴッホ、ミレーとバルビゾンの画家たち 岩手県立美術館 展示はゴッホの自画像(1887年)から始まり、バルビゾン派の作品が続き、ゴッホに影響を与えたミレー作品、ゴッホの油彩で締めくくる。個人的には1999年に渋谷のBunkamura で見たクレラー=ミュラー美術館所蔵 ゴッホ展とミレー、ゴッホについては印象が重なるが、バルビゾン派の作品はなぜか親しみ深い。今は漆美術館になった盛岡市内を見下ろす橋本美術館のコレクションの柱として物心ついた頃からバルビゾン派は妙に知っていた。自分にとっては”油絵”とはこういうものなんだと教えられたような記憶が残る。しかしミレーの作品はなぜか骨太なところが違っていた気がする。ミレーのデッサンや版画に見られる力強い描線はある意味、対象の抽象化から生まれていると言ってもいいだろう。ゴッホの作品はバルビゾン派の多くの作品と印象を異にする。、描線に見える単純性と意思の強さは、ミレーの影響が極めて高いことを明確に物語っている。しかしゴッホはミレーの影響を認めながらもミレー以上に今につながる感性を持っていたのだと思う。ゴッホの油彩はもっと見たい。 8月15日まで。

(2004.6.26)プリン展 クラムボン カラメルたっぷりプリンのオンパレード。懐かしくも、パーフェクトな意匠としてのプリン?は今回も健在。何風に料理してもプリンの味を出すところがあなどれない。7月3日まで。

(2004.6.20)N2スタジオライブ 1《GALLERYオープン記念展》 新里陽一+小野英治&小野嵜拓哉 YELLOW PLANT GALLERY 新里氏の郷里雫石にオープンしたこのギャラリーは、巨大なロフトである。盛岡程度の都市でもあれだけの空間を有する個人の展示空間はそうないだろう。旧国道46号線から程近いなんだか懐かしい曲がりくねった坂道を通り迷わず辿り着いた。今回の展示は大きな吹き抜けの空間に氏の近作ドローイングと10年ほど前の触角という大作が3点、十分すぎる間合いで置かれる。ドローイングにもひかれたが、実は実物を観たことのなかった立体は昆虫か何かのざらざらした、ひっかかるような突起をもった脚のような淡く光を透過するどこか見覚えのある少年の日の感覚を呼び覚ました。しかしその大きさは妙にスケールアウトしていて不思議な空間性を生んでいる。新里さんの作品は主に東京で発表されてきたが、何度もチャンスがありながら上京した際にもほとんど観る機会に恵まれなかった。盛岡の彩園子で観たくらいであった。今回直接作品に触れ、氏のパワーが衰えるどころか何かとても純粋なものに向かっている様に感じうれしくなった。49年生まれなのだ。また小野さん小野嵜 さんも奥の氏のアトリエの壁によく計算された仕事を見せている。6月30日まで。
栗木 映/個展「イーハトーヴの風とポンペイの光」 かわとく壱番館キューブ店 栗木さんは淡いパステルによる表現で盛岡でも何度も個展を開いている。題材はやわらかくとらえた岩手山のシルエットやポンペイでのインスピレーションによる連作、氏のコレクションでもある本物の蝶の標本、アクリルなどによるミクストメディアと多彩。同じ岩手山を眺めていても氏は光と風を軽やかにパステルでとどめる。21日まで。

(2004.6.15)北斎漫画と北斎の富士展 萬鉄五郎記念美術館 「北斎漫画」150余点、「富嶽百景」40点、、「冨嶽三十六景」13点による展示は見ごたえがある。特に今回の展示の中心をなす「北斎漫画」はその絵師としての超技巧は勿論のこと、描かれていない間である余白または微かな墨色の下に存在する北斎の呼吸が直接的な表現以上にものを言っているように感じる。ゴッホやモネ、ドガなどヨーロッパの多くの印象派の画家達に影響を与えたのは有名であるが、あらためて日本人として誇りに思う。さらに北斎について感じるのは、「風景」に向かう視線である。庶民の暮らしを描いた歳時記や植物の描写にも卓越した技術が見られるが、この時代に庶民が風景に向けた視線とは明らかに異なる、風景を客観的に捉える眼が備わっていたことを感じる。作品を観ていると北斎の眼のうしろ側から見ているような感覚を覚える。7月11日まで。

(2004.6.12)杉本みゆき 展 色彩のハーモニー オープニング 石神の丘美術館 杉本みゆきさんは青森出身で盛岡を中心に作家活動を続けている。今回の展示は美術館の展示室をいっぱいいっぱい使って80年代の作品から現在まで40点あまりの作品で構成。決して小さくない作品ばかりが並ぶ空間にはあらためて仕事量の多さを感じる。一見初期から大きな変化はないのだが、そのことはみゆきさんの仕事がしっかり地に足をつけていることを意味するように思う。これは色彩のイメージによるものが大きい。画面に力強くも、水の在り様のごとく佇むピンクやコバルトブルーからだろう。彩度の高い色彩が多用されながらも画面が主張しすぎない。みゆきさんの作品は何度も見ているのに、作品からは新たに出会ったような印象をいだく。振り返って思い出そうとしても個々の作品のディテールがなぜか浮かんでこない。しかし杉本みゆきさんの作品は総体として容易にイメージできる。むしろこのことが重要なのだと思う。近年作品に水平性をもった拡がりを感じる。7月19日まで。

(2004.6.9)うちわ展 GALLERY彩園子 この時期恒例のうちわ展。うちわに描いたり、うちわの原形をとどめないほど変形された作品は、ながめながら出品者を想像でき、楽しい。子ども達の出品も増え、ギャラリー1だけでは納まらなくなりつつある。ありきたりでありながら、うちわであることが出品者のキャリアを越えてそろって見えるから不思議だ。

(2004.6.5)”SALMO SAX”山内桂サックスソロ・ライブ 「星耕茶寮」 共演した金野(ONNYK)氏によるコンサートパンフに紹介された山内氏に興味を持った。・・・決して声高に叫ぶことなく、息が赴くまま、時に囁(ささや)き、時に呟(つぶや)き、時に鎌鼬(かまいたち)の如くよぎるリアルな呼吸、一幅の山水画を思わせる静かなそしてラディカルな即興演奏です(パンフより)。日もすっかり暮れた山中の一軒家、蝋燭の灯りが深い闇をきわだたせる。そんな中、どこから演奏が始まり、どこまでが楽器の音で、どこまでが奏者の息づかいかさえ境界が不明な静かな、しかし何か強いものを感じさせる音、いや無音の連続。ここでは個々の楽器の持つ音によらない奏者の呼吸が空間にどう作用するかが重要だということを発見させられる。まったく新しい体験であった。一部は金野氏も山内氏のブレスに添うような展開、二部で金野氏はサックスに打楽器的な音も加え、互いの音が離れながらも融合する世界を展開。
 会場となった星耕茶寮へは久々におじゃました。馬賊、星耕茶寮を盛岡で経営されていたかれこれ15年いや20年以上前、佐藤さんにお世話になった。おいしい自然素材による食の提供は勿論、佐藤さんのつくる”空間”、環境そのものに自然と学んでいた気がするからだ。佐藤さんはその後大迫の山中に古い民家を改造し静かに暮らし続ける。なかなかお会いする機会も減ったが、ここを久々に訪れ、この空間に何も”たす”ものはないのだとつくずく感じた。

(2004.5.31)小野嵜拓哉 展 ギャラリー彩園子 花巻市在住の小野嵜さんの作品はタブロー(油彩か)とエッチングによる。線が蠢くエッチング(中にはイエロー刷りもある)のイメージは大作の油彩においても貫かれている。特に白地にレモンイエロー一色でうねうねと引かれた線の集積は不思議なイエローの光を放つ。レモンイエローの彩度というより明度の高さが地の白と共鳴し、少し画面から離れると輪郭をもたない何とも判然としない空間をつくる。輪郭の(存在の)不完全さといったことにどうもこの作家は興味を持っているように思う。

(2004.5.28)このHPもこの五月で開設一年が過ぎました。最初はスタイルが定まらず更新ばかりでしたが、最近はこのvoiceのコーナーに手を入れることが中心になっています。いやいまだにページを大胆には変えられず要するに使いこなせていないのでしょう(デザインより中身のあるものと思いながら、使用ソフトによってデザイン的にも規制が多く、やはりデザインも気になります。)それに加え、WinとMacを半々で使っているため何かと煩雑、煩雑。どこから集まったのか4台のPC。内Mac3台[OS8.6(元?Performa5430を無理やりMacOS化)、OS10.1.3(初代iMacをOSX化)に最新の新顔OS10.3(iBook)、もっと以前のものも動く。]。しかしこのHPを作ったソフトがWin版なため98seを渋々と使っている。さすがにだいぶストレスがあります。そろそろMacでもページを立ち上げたいと思うこの頃。こんなページですが今まで訪れてくださったみなさんに感謝いたします。自分としてはまず自分自身にとって必要なそして少しは楽しめる内容を目指し、それを見ていただければそれだけでいいかと思っています。これからもたまにのぞいてみて下さい。(なくなっていないか 笑)

(2004.5.23)THEドラえもん展 秋田市立千秋美術館 このところ美術館では、従来考えられなかったテーマによる展覧会が目をひく。ドラえもん展もその一つだ。一時的にでもそれまで美術館には縁のなかった人たちをも動員し、来場者数の上では成功なのだろう。ただあまりに大衆受けするテーマにあやかり過ぎると、何も美術館でなくてもよかったのではという思いもわいてくる。ドラえもんを出品作家がどう解釈し自分の表現にインスパイアするかはあまりどうでもいい気がしてくる。原作の持つオリジナリティは皆共通に認めよう。その上であってもドラえもんと各アーティストのそれまでの仕事を無理に繋げることには少々ナンセンスを感じる。そんな中、バカラのガラスのドラえもんは透明なガラスでできたドラえもんだが、ガラスの持つ透明性とキャラクターの記号性が妙にクロスし面白い。昨年日本デザイン学会のシンポジュウムで拝聴したデジタルハリウッド(杉山知之代表)のCGも見られる。

(2004.5.21)白石かずこ 詩の朗読会「今日のオデッセウスをつれて」 ギャラリー彩園子・一茶寮 定員80名は満杯。 「ユリシーズの運命・詩の行方」上映後、白石かずこの登場となった。正直こんなにもわれわれを気にしながら語られる人とは思わなかった。聴衆との距離を感じさせない会場の広さが初々しくさえ思える緊張を生んだ。いや、詩人の純粋さは少女のまま消えないのだ。何をインターバルに話していたかあまり思い出せないが、すべての語り口が美しく静かに佇む。そこには強引な言葉も過剰なモーションもない。とりたてて美しい描写があるわけでもない。ただそこに詩が存在したということ。詩とは意味のディテールではないということを白石かずこの詩はどこまでも透明な言葉を携えて川の流れのごとくに立ち止まらず示すのだ。

(2004.5.17)常設展 MORIOKA第一画廊 松本俊介、舟越保武、舟越桂、高橋忠弥、菅木志雄、宇津宮功、戸村茂樹・・・・・他多数の出品作品にまじりちょこんと拙作NORTH WINDが一点。時代も作風も異なる作品がなぜかここの壁には違和感なく響きあう。久しぶりに上田さんともお会いする。
沢村 澄子 展 GALLERY彩園子II沢村さんの発表は彩園子で何度目だろう。今回は特に建物の入り口から階段の吹き抜けも作品に取り込んだ空間性を感じさせる書。書には全く縁のない自分だったが沢村さんと話すと書がこんなことを出来るんだという発見と美術家とか書家といった服(沢村さん曰く)を着ていることの無意味さを思わされる。沢村さんはものの輪郭や言葉の輪郭に対してではなく、本質はその内側にあり、そのことに対する興味について、白石かずこの詩や菅木志雄を引き語っていた。わたしは言葉または詩文と書の関係に前前から興味を持っていたが言葉や詩にも輪郭があるとすれば、書として選ぶのはその輪郭ではないという沢村さんのスタンス(勝手な解釈ですが)に納得がいった。21日白石かずこ 詩の朗読会が予定されている。

(2004.5.16)常設展 夏季展示 岩手県立美術館 今回特に新所蔵となった作品に注目してみる。千葉 勝の絵画二点、菅 木志雄の半立体一点、本田 健のドローイング一点、小野 隆生のレリーフ一点、舟越 保武の彫刻一点、萬 鉄五郎の油彩一点である。中でも本田、菅、小野氏には年代的にも親しみを感じる。本田氏とは歳が同じであるが、作家としての姿勢にはいつも尊敬させられる。制作に対する厳しさが畳一枚強の作品でも空間に強い存在感を与えている。また多くが平面である現代作家のコレクションにあって菅氏の作品は小品ながら組み合わされた素材が互いに存在を支えあう関係であることを静かに空間の中で指し示す。このほか昆野 恆の作品に興味を持った。夏季展示は8月8日(途中展示替あり)まで。今日はまたスーパーリアリズム展最終日。館内もかなりの来館者。聞くところ記録的な動員数だったそうで、特に一般の人たちが何を感じたか興味深い。

(2004.5.15)齋藤 隆 展 リアス・アーク美術館 異様な作品群だ。自身や群像、老婆の姿や手の素描がただならぬ気配をもって迫る。気持ちのいいとは逆の一皮剥がされた人間の本質を見るようだ。1943年生まれのこの作家は全国を放浪しながらその土地での出会いを描いて、現在は東北地方の小さな村に暮らすという。久々に情念のこもった仕事を見た。初期の作品はある意味独学の過程を感じさせるが、近作に見られる短冊状の和紙を画面に不規則に貼り、墨で線描した作品は見たことのない線の強さと妙な奥行の感覚を受ける。定住の場を選ばないこの作家が東北に引き寄せられる理由を考えるに展によせたテキスト(山内氏による)が結論は婉曲にしつつ実によく炙り出しているように思えた。
N.E.blood21 石川 美奈子 展 リアス・アーク美術館 盛岡に在住の石川さんを紹介する。石川さんは最近特に積極的に発表を重ねている。今回も盛岡のギャラリーla vieやギャラリー彩園子Uまた岩手芸術祭などでの延長線上の仕事だ。白い貝殻が敷きつめられた空間にラミースライバー(麻)にふのりによって白く柔らかな光のベールを見せる。点在する光源が一層奥行を醸し出す。最初なんてフェミニンな空間なんだと思ったが、彼女の思いは白い貝殻や植物を二次的に用いるテキスタイに死を重ね合わせているという。最近は空間自体を作品にする作家が少なくなった気がするが今後にさらに期待したい。
内田 晴久 展 盛岡クリスタル画廊 大型の立体と立体小品、壁面レリーフによる。宙に浮いたかのような金属彫刻で有名な作家だ。磁力によると思われる接点を持たずに均衡を保つ弓なりな金属オブジェはいつ見ても好奇心をわかせる。しかけが重要なのではなく重力に反し浮遊する感覚自体がすべての意味を無効にする。建築自体にこのしくみを組み込んだら面白いと思ったりする。来盛された作家ご夫妻と百瀬氏、本田氏、アニアス氏ほかとオープニングの一時。

(2004.5.10)橋本尚恣 版画展 クラムボン・ハンガー クラムボン クラムボン・ハンガーとはクラムボンの壁面にとにかく吊るしちゃおうという気分からとのこと、心地よい展示のバランスが印象的だ。エッチングもあるが、アルミ板によるドライポイントが中心。わたし自身最近、版画にとても興味を感じるが、アルミ板を有機的な不定形に切り出し版にする橋本さんの取り組みはあまり版画という窮屈さがなくて面白い。版自体にかたちを与える柔軟さは[版画]というしばりの中では出来そうでできないことである。そうした「版画」の概念自体に対する疑問や一般的な捉え方について共通した話ができた気がする。今晩青森に帰る橋本さん、千穂さんにお会いすることができた。会期は5月22日まで(日曜休み)。

(2004.5.8)蔵からでてきた萬鉄五郎 展 萬鉄五郎記念美術館 館の20周年にあたる年、萬研究のさらなる深さを感じさせる未公開作品や資料70点余りによる。所謂意識して残すためではないスケッチや水彩には萬の思考がストレートに見えてくるものが多く、あらためて萬が何を見ようとしていたのかという問いに対する興味が湧いてくる。特に萬が自ら撮影した残されたガラス乾板写真には妙な感覚を覚える。そこに写し出された人物や風景が単なる記念写真ではないことが随所に読み取れるからだ。萬にとって描くことと写真を撮ることは同義だったのだろうか、それとも写真で絵画にはできない試みをしようとしていたのか。自らデザインした服を着た子供の写真等からは広範な才と意匠に対するもう一人の萬の姿を発見できる。もう一度じっくり見たい展である。同時に過去の萬企画展をバーチャルに体験できるデジタルコーナーも新しい。


(2004.5.5)八幡平も好天。この時期作品の取材がてら山にはよく行く。春先の雪どけの風景が好きなのだが、気温によって同じ山の景色も見え方が変わる。今日のような気温の高さは雪ももっさりとして、風景までひきしまった感じがしない。八幡平アスピーテラインの頂上駐車場は有料なので樹海ラインに折り返した地点に車を停め、藤七温泉まで一気に滑走。久々だが雪の残りかたでラインどりがそのつど変わる。あとはスキー担いで車まで黙々と歩くのみ。


振り返るともっこ岳がくっきり。この時期いたるところが滑降可。ただしリフトはありません。

(2004.5.3)生誕100年メモリアル 斎藤義重展 NOVITA(青森市) 氏が青森の出身という意外に知られない事実から地元でも氏の功績を再検証する取り組みに力が入っている。一階にガラス張りのホワイト・キュービックな空間は複合体301(部分)が映える。部分とはという思いもあるが、きっかり空間に合って見える。「Bronze」というレリーフ作品もシリコン
によるブロンズを反転させた作品との対で新しい見え方を感じる。作品の制作年代は比較的新しく、初期のコンパネにドリルで向かったような荒々しさはないが、完成度の高さには感心させられる。明日はシンポジウムが予定されている。
谷口雅邦 発芽虫 ACAC 青森出身でいけ花の龍生派から作家となった方という知識しかなかったが、実際今回の作品にふれ感じたのは、何か切り口が違うような、いけ花の出身という頭からか(そういう見かたは良くないが)。あのACACの湾曲した大空間の壁面に一見動物の毛皮を張り巡らせたのかと思うほどに、不定形の動物とも植物の一部とも連想させるフォルムを持った土を塗りたくったキャンバス布?をガンタッカーで無数に貼り付けている。そして発芽というタイトルですぐにぴんときたが、会期中の発芽は考えていないのだろうか?土も乾いている。発芽という強い生命力に国境や人種を越えた連鎖を期待するなら人為を越えた力を見たいという思いはわたしだけだろうか。雨に霞むACACの余韻を残して帰路に。

(2004.4.30)通勤路に残る雪が最後にいつ消えるか毎年注意しているが、今年は明日が消雪となりそうだ。どうしてここの雪は消えないのか不思議なのだが滝沢のこのあたりは普通の家の軒下でも4月中旬まで消えないこともある。桜もほぼ終わりなのに。まあ八幡平アスピーテラインも開通日(4月28日)に通行止め(積雪のため)という変な気候を考えれば。




ついに雪が消える。真中にわずかに残っている。
(2004.4.29)写真を撮りながら網張休暇村を出て犬倉山(1408M)に向かう。この中途半端な時期に登る者はゴールデンウィークでもそういないのだろう。それにスキー場は完全にクローズしている。途中、雪面に足跡を見つけるが消えかかっているので昨日のものか。あとはテレマークスキーのシュプールが一筋だけ。第一リフト付近の斜面はほとんど土が出ていて登りやすいのだが途中からやわらかい残雪に苦戦する。靴の中でかかとが動き疲れが増す。最短距離を考えるとリフト下かとミズナラスロープ(昔は”弾丸コース”と言った。こっちのほうが迫力がある。)を右に見て第二リフト下を登るが最後の斜面がつらい。しかし登りきると急に足が軽くなり第三リフト下を通り終着ロッジを眼下に一気に高度を上げて網張元湯をまじかに見下ろす展望台?に。45度にも近い元湯への斜面はフリーライドスキーヤーなら飛び込みたくなるがそれだけは御法度だ。雪面がやけに白いのは数日前の新雪が白い雪の層を見せているからだ。気温が高く登るには新雪がまとわりつく。今回もスキーをかついでの登坂なため、帰りの登りは避けたいので犬倉山を直前にひきかえすことにした。快晴の眺望は最高で360度見渡せる。とても穏やかな山のひと時だ。雪面に体を投げ出し空を見ているとこのまま夜になったらそれはそれでどんなに美しいだろうと想像してしまう。詩人ロエスのごとく。しかし自然はそんなに甘いものではない。今日の無事を感謝し、重い雪に板を下ろす。期待はしていなかったが、板はもたつく雪に予想以上に滑らない。途中雪も途切れ途切れになり樹間を縫って強引に第一リフト前の駐車場まで下りる。

右は犬倉山(1408M)     網張元湯からは蒸気が上がる。

村上善男 展 湯本美術展示館開館二周年記念企画展 氏の1959、1960年に制作された鉄によるオブジェと弘前から盛岡に移ってからの特に湯本で制作された新作による。一室(鉄オブジェと初期油彩中心)と二室(新作平面)は40年以上の制作年の違いがあるが、たった今出来上がったようなオブジェは単に保存状態のよさだけではない古びれない魅力がある。また古文書を用いる近作と比べ、オブジェには尖った時代の風潮が感じられ、その後の平面に使われるエレメントを部分に見出せるのも発見だ。1954年から三年間教鞭をとった湯本の地が氏のこの地への再接近を促し、そこから始まった新作群は緊張感を湛えながらも初々しく新たな展開を予感させる。5月6日まで会期。
                  

(2004.4.26)内藤晴久展 GALLERY彩園子I、II Iの空間は水彩であろうか黒と白のモノクロのドローイングが間隔をおかずに壁面を覆う。単純にも見えるが目に見えない緊密な関係性が空間を作っている。IIの空間は壁面を全面覆うほど大きなドローイングによるインスタレーションだ。大小の円や三角形が韻を踏んだようなドローイングは簡潔にして深い距離感を見るものに与える。

消雪の記録をと思いいつもの場所を通ると、今朝の季節はずれの積雪のため残っていた雪が消えたのか、それともその上に新たに積もったのか判然としない。

(2004.4.24)「絵画(現実)にとって現実(絵画)とは何か」本江邦夫氏(府中市美術館長、多摩美術大学教授)講演会 岩手県立美術館 絵画の歴史を3万年前の洞窟壁画から現代まで「絵画」が何をしようとしたかをひも解きながら、今なお可能性をたたえる絵画の不思議さを「絵画/現実」という視点で展開。その上でスーパーリアリズムと言われる作品群が、それまでの絵画とどう同じで、どう違うのかに焦点を合わせた指摘は興味深い。スーパーリアリズムは人間の眼とはある意味異質な眼を持つ写真機を通して再現された対象を人間の眼によって再び再現する。人間の眼と手によって何かにむかい二次元平面に描き表わすという点では太古からの繰り返しである。しかしスーパーリアリズムは写真に執拗なこだわりを見せる。それは写真機という”物”をファクターにすることにより得られる写真という情報の等価性(直接描くことによる作者の介入と比べ,写真とはどこを切り取っても情報は等価に記録される)への興味と、写真を忠実に再現することは描く自己を遠ざけるに格好の手段であるからなのだろう。こうした物としての対象への固執はk.マルクスのいう資本主義経済がもたらした物神崇拝の現れと指摘する。しかしスーパーリアリズムの面白さは突き放した冷淡ともとれる眼差しよりも、かすかに感じ取れる作者のアナログな息遣いと作者の意図とは別に見る側が抱く”見ることへの欲望”とのずれにあるような気がする。

(2004.4.21)クリンゲン・バウムに立ち寄る。マスターご夫妻は萬での展にわざわざいらして下さった。まだ芳名帳が手元にないためいらした方々に失礼しているかと思います。

(2004.4.17)写真取材に網張へ。自宅から車で最短?45分そこそこで別天地に着く。実に近い。この時期いつもならまだ春スキーも十分可能なのに、なんとクローズしてるではないか。数年前から閉鎖している岩手高原スキー場といいこれだけアクセスがいいのに残念だ。付近を取材しながら、車に積んであるスキーを担いでリフトが止まろうが登ってみることに。第二リフト中間まで登る。春色の下界と残雪のコントラストを楽しみながらゲレンデを一人占め。贅沢、贅沢。
萬鉄五郎記念美術館で開催の「長谷川誠・菅原清美」展はいよいよ明日最終日です。

             萬鉄五郎記念美術館の周囲も桜がこれから見頃。

(2004.4.16)Aeneas Wilder Exhibition オープニング ギャラリー ラ・ヴィ 先日のACAC(青森)での展示が見られなかったのは残念だが、アニアス・ワイルダーさんも岩手と縁が出来、コンスタントに作品を見られることは嬉しい。今回はギャラリーの横幅いっぱいいっぱいに直方体のスチロール(ウレタン?)で空中に浮く、細長い魚篭のような構造体をインスタレーションで見せる。垂直方向の緊張感というより水平方向の力の拮抗が伝わる。その手際のよさは、さすがだ。空間に合わせて素材も巧みに変更する。今回のように発表する場所と使用する素材との関連があまり感じられないと、より幾何学的構成に意識が向かう。写真下、左端がアニアスさん。

以前、消雪の記録についてちょっと記したが、4月16日現在でも、通勤で通る道にまだ残雪がある。ここの雪は4月30日まで残っていたこともあった。今年はいつ消えるだろうか。隣接した児童館の子ども達は4月でも雪遊びをしている。

(2004.4.13)webを眺めていても、最近、美術界全体の閉塞状況を感じる。見たわけでもない展覧会の批評を読んでいてもかなり頷けることが多い。自分が見た展のレビューなどもかなり辛辣に表現されていたりすることが多い。多くは現在のアートの画一的で横並びのフラットな状態に対する物足らなさからくる。日本はアートを語る上で特異な土壌であるという概念が以前はあったが、最近の森美術館での「クロッシング」などを見ても、ここは日本かと一瞬思うことがある。戦略的な日本美術の引用などは少々見え見えだが、概してファッション雑誌をめくるような妙に感覚的な傾向が目に付く。以前わたしは「クロッシング」を日本人も世界スタンダードに近づいたのかなどと表現したが、その裏にはスタンダードを標榜する画一化への危惧がある。多くのアーティストが自己への眼差しの確認をニュートラルに自己の身近な対象を介してある様式の中で焼き直しているかのようだ。物足りなさをどこかで感じながらも、一方でマーケティングに反映されない作品には陽があたらないという現実との間でアーティストすべてが安易な成功法を求めてビジネスに向かったとしたらアートも終わりだと思う。

(2004.4.11)現在開催中の萬鉄五郎記念美術館へは、出来るだけ土日の行ける時間帯にはと思っている。一ヶ月以上の会期は経験したことがなく、盛岡からのこの道もちょっとした通勤路という感じだ。特に国道396号と土沢を結ぶ棚田を眺めながら走るアップダウンは飽きない。峠を通らない方法もあるが、そちらには魅力を感じないのだ。土沢という地の正体がこの道を走ると炙り出されてくる気がする。その道はトンネルも出来快適になったが、ほとんど車にも、そこを通過する人々にも出会うことはまれだ。土沢に近づくにしたがい萬が見たあの棚田が近隣の開発をよそに静かに今もそこに光のリズムを刻んでいるように感じる。町は市町村合併に大きく揺れているが、この風景は消失しないで欲しいものだ。

(2004.4.8)学生190名を連れて岩手県立美術館に。こういう立場では作品を観るより学生の動きにばかり目が行ってしまう。美術館にはご迷惑おかけしたと思うが、学生にとってはこれから何度あるかわからない本物の作品との出会いのきっかけになればと願う。スーパーリアリズム展は我々の視覚についてあらためて意識を向かわせ、アートに興味を持ついい機会でもあった。それにしても中高までの美術鑑賞の未経験者が多いことにはこういう時思いがけない苦労をさせられる。
そして今度はゼミの学生をつれ萬鉄五郎記念美術館へ。

(2004.4.6)島村真樹子ー1990年の噴火− 石神の丘美術館 氏の1989年から90年にかけて描かれた2000枚にもおよぶポストカードサイズの作品が中心。とうてい展示しきれない2000枚という量は奥の展示ブースに山積みされてそこから壁面をつたってまさに噴火をイメージさせる展示でもわかる。私も一度デイリーワークのように水彩でドローイングを描いてみた事があった。できるだけ考える間を与えず手の動くままにと。しかし時間をおいて見返すとどうもしっくりこない。”描く”ことを何らかの私的な感情的衝動や偶然性(技法的なところが大きい)にゆだねるということは、それが即、自己の作品になるかと言うと、実は難しい場合が多い。そのしっくりこなさは何なのか。それは自分の場合、中途半端な立ち位置からくるのだろうと今は思う。島村さんは何かに目覚めるかのように衝動にかられ4ヶ月で膨大な絵を描いた。そしてその時の思いが今につながっていることを感じる。その最初の衝動は氏だけの最もピュアな感覚であったのだと思う。そして観る側は氏との共有できる想いや衝動を必至で探そうとする。会場にあったQ&Aで氏が自身の作品をアートと距離をとっているような解答をされていたところに目が止まった。

(2004.4.4)スーパーリアリズム展 オープニング 岩手県立美術館  1960年代後半アメリカを中心にポップアートと呼応して起こったスーパーリアリズムの第三世代と言われる作家までの系譜を一挙に見せる。出品されている作品点数以上に見たような気がするのはそれだけ見るということに意識が向かうからだろう。写真を絵画表現のベースに使うことは便宜的に人間の視覚の補助として用いる場合は多いが、ここでいう写真との関係は、人間の描く行為によって写真が記録し得る情報の全てまたは焦点の合わない部分にまでピントを合わせて再現するといったハイパーリアリズムを指す。日本では見ることの少ないここまでの写真への肉薄した表現は、時間が止まったかのようなアメリカの片田舎の風景の断片や、車をはじめとしたメタリックな工業製品など選ばれる題材も含めてバックグランドの違いをまず感じる。しかし何気ない日常への関心は最近の美術の一つのスタイルと共通性があると言えなくもない。写真をベースにしながらも、気の遠くなるような人の手だけで描くという行為に対する執拗な傾倒ぶりは写真技術の発明に対するパラドクスとも感じる。しかしさらに注意したいのは最近のリアリズム表現の中にはそうした写真の複写に向かうこととは、明らかに異なる精神性を内包する作品があることだ。初期の多くの作品群が写真を忠実に再現することで主観や感情移入を極力排除する方法をとったのに対し、意図的ではない写真のアングル(クローズアップなどの写真的な効果によらない)と背後の乾いた感情は何か新しいフォトリアリズムを感じさせる。それにしてもこのフラットな描画テクニックには驚嘆させられる。
R.E..PENNER(1965-),Davis CONE(1950-)、Anthony BRUNELLI(1968−)が特に印象に残る。会期は5月16日まで。

(2004.4.1)六本木ヒルズの回転ドア事故について、各方面で意見が聞かれる。だからと言ってヒルズ全体をどうの言うつもりはないが、あるページに森ビルでの展覧会について「作品は充実しているのになぜか疲れたという印象の方が強い
。見る人にやさしくない」という感想がこの事故のはるか前に囁かれていた。確かに美術館での動線は複雑で高齢者や幼児に対する配慮はあまり感じられない。回転ドアも外見的なデザイン重視であろう。子どもの様に機能に逆らう方向に反応した際の緊急停止やショックの緩和などどれだけ対応出来ているのだろう。都市の広い意味での機能とはある信頼の上で成り立っている。それが壊れるとそれまでの価値体系が揺らぐ。最悪を想定できない甘さは日本人的であり、訴訟社会のアメリカなどでは、最悪の回避に目に見えない努力をしているという。我々もこの事件が起こらなければ気付かなかったのかもしれないが。


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