過去のVOICE 2004.10.1〜2005.3.31



(2005.3.31)アートもしぼむ様な春の足踏み。このところ毎日平地ではたいして積もらないが雪・雪・雪が舞う。4月になればと思うがなんだか今年は春先が寒い。先日の横浜も結構冬モード。しかし北国に住むものにはこの冬の間こそかえって自分に向き合える気がする。どうしても行動範囲も狭まるし寒さに耐えるハンディは余程、損をしているように思うが、それだけ一気にやりたいことが爆発するのかもしれない。ものをつくる上では、この寒さの中でこそ見えてくるものを大切にしたいものだ。今年(来年度)は横浜トリエンナーレもあるし金沢21でのリヒターや開催中の万博といくつ見られるだろうか。

(2005.3.22)アートフェスタいわて2004 搬出作業 

(2005.3.21)磁気状況・2005 Part2 荒屋 満男/勝又 豊子 ギャラリー彩園子 荒屋さんはIIの空間に平面9点の出品。荒屋さんの作品が平面になってからだいぶ経つ。今回も色調は変わらずアクリルによるスピード感のあるペインティング。ただ画面に楕円形のモチーフが共通して現れる。それは地に塗られた彩度の高い水を多量に含んだブラシストロークの速さをとどめるかのように塗り重ねられているようだ。この数個の半ばバックのストロークとも連動する楕円の出現により平面性に複雑な奥行き感を与えることに成功しているように思う。
 勝又豊子さんは国内外で活動する。2年前だったかアートみやぎ2003でそういえば大規模なビデオインスタレーションを見た。その時の印象も計算された完成度の高い仕事だった。数年前から自分の身体の一部を写真に撮ったり、型取し、金属や異質な素材と組み合わせ提示することで自らの身体を検証しつつ、まったく異なる次元へ意味を還元することに成功しているように思った。今回の作品はギャラリーIの限られたスペースに建築の独自の梁や敷石を含めて硬質な空間の形成を見せる。体温を暗示するデジタルカウンターを壁に取り付けたり、個々の作品の読み取りに加え、観る側は巧みに時間的な深さも与えられる。4月2日まで。 

(2005.3.19)「マルセル・デュシャンと20世紀美術」展 横浜美術館 
 榎倉 康二展 東京都現代美術館 絵画の平面性を保ちつつ物質性をとどめる。現象でありながら恣意的である。透明な身振り。構築的でいて脱構築的。不在であることが実在を喚起す。身体性を孕みながら、身体は解き放つ。物質的でありながら精神性に依る。表面的でありながら背後を予感させる。偶然によりながら抑制を保つ。一過性によりながら永遠を示す。・・・・52歳の若さで急逝したこの作家は自らの死の淵を悟るかのように最後まで身体性を介しながらも物質性を永遠に留める。それは永遠の予兆にも見えるし、すべてを超越した事物の在りようだけを提示させているようでもある。 21日まで。
 「MOTアニュアル」 東京都現代美術館 榎倉 康二展と重ねて開催されているMOTアニュアル2005 愛と孤独、そして笑い。ちょうど3.19は東京都現代美術館の開館10周年の日。粗品に二会場の入り口でデザインの異なるクリアファイルを頂くが、このキャラクターがMOTくんか・・・。熊井正のイラストは好きだがちょっとこのキャラ、良さが出ていない。まだボールペンの方がましだと思った。で、展の内容は活動年代のややことなるしかし全員女性作家という構成。ここ十五年に満たない間に女性をとりまく現代社会はことごとく変化してきた。雇用体勢の男女平等化は急激に働く女性を増やし、彼女らは仕事を辞めずに働き続ける。また離婚率の増加、少子化も社会の変化の反映なのだ。そんな中でも、出産、育児における女性の負担は肉体的ばかりではなく一方で不均等な問題でもある。そんな現代の社会における女性の視点に立った表現は、従来の枠組みに半分足を突っ込みながらも、あきらめとも違う、からっとした笑いと感性でしたたかに問題を投げかける。表現におけるジェンダーの問題は日ごろ意識しないが、こうして9人の作家の表現を見ていると、明らかにストレート(直接的)で生理的ないさぎよさに何だかスカッとするものを覚える。21日終了。
MOTくん
 森山 新宿 荒木展 東京オペラシティアートギャラリー
 馬場恵展 東京オペラシティアートギャラリー4Fコリドール
 土屋 公雄展「グラスのバラ」 GALERIE ANDO 昨年の国際芸術センター青森ACACでの記憶も新しい土屋さんの発表。土屋さんの作品は80年代から90年代の初頭あたりまで、よく銀座等の画廊で見かけたものだ。その後多くの野外展や国際展に出品し現在に至っている。数年前ギャラリーGAN(たしか) での発表を見たとき久々に出会った。初期の作品には同時代的にイギリスのネイチャーアートやランドアートの影響が見える。よく銀座にあった村松画廊と鎌倉画廊を巡り、側にあったモリスギャラリーでガラス越しに土屋さんの作品を見た記憶がある。当時はデイヴィッド・ナッシュやロジャー・アックリング、トニー・クラッグなどが日本でも頻繁に紹介されていた。今回の土屋さんの仕事はACACでも見たガラスのバラのシリーズだ。ガラスはワイングラスの破片やとてもデリケートなガラスの断片である。しかも人為的と言うよりは火事場からでも拾い集めたかのように煤に覆われかつての輝きはない。そんなグラスの断片を緻密に接着しながらあたかもガラスで作ったバラの様に表現している。詳しいバックグランドは知らないが、阪神淡路大震災から強烈に氏の中にどんな価値観をも無用にさせる「死」のイメージと対極にある「生」とがあきらかに拮抗関係に作品の中から読み取れる。ACACで見た一軒分の灰によるバラの花のインスタレーションなどがそうだ。GALERIE ANDOはかなりタイトな空間だ。真っ白い壁からとび出た美しいこれも白い台の上で透明アクリルボックスの中にバラの花が無言で佇む。26日まで。

(2005.3.15)常設展 ギャラリー彩園子
(2005.3.13)版画研究室展 岩手大学教育学部 芸術文化課程 ギャラリーおでって 卒業制作展と重なる時期に開催したがって先日、記憶に残る名前が。大学で何を学んで卒業するか。美術を志す学生に4年間はそう長い時間ではない。しかしある水準までの技術を身に付けて卒業できるものもいれば、アートを自分の領域に近づけることを出来ずに出て行くものもある。長い目で見ればこの時期に出来上がっていることはかえって将来、行き詰ったり、目的を失うケースも見てきた気がする。したがってここに並ぶ学生さんの未来も誰も予測が出来ない。言える事は「版画」という表現としては決して手っ取り早くない方法を選び、技術の鍛錬を重ねながら、今、自分にとってアートで表現することの意味や、社会におけるアートの存在意義を真剣に考えようとする若い人たちがいるということ。そこに決して強い光ではないのだが無視できない何かがうごめくものを感じる。18日まで。
 アートフェスタいわて2004 ギャラリートーク 岩手県立美術館 各部門が自らトークする今回は、部門の特長も出て面白いとのこと。ちょうど自作の写真撮影に立ち寄ったところバツわるく自作の解説中。一言作者からのコメントを求められてしまうが、言語というものは頭がその気分になっていないと急には口から出てこないものだ。説明にならない返答。その後、デジカメと久々にリバーサルで撮影。フラッシュは使わず手ぶれぎりぎりのシャッタースピードでかなりの枚数を撮る。しかし絞りもほとんど変えないので失敗すれば全部パーだろう。用があり再び閉館ぎりぎりにもぐり込み貸切撮影。


(2005.3.11)国立大学法人岩手大学教育学部 芸術文化課程造形コース美術選修 卒業制作展2005 岩手県民会館 なんとも正式に書くと長い名称になる。確かに国立大学の再編は確実に進んでいるし、内部から伝わる今までには有り得ない空気も感じる。今年はうちの職場にも学生さんのの手書き?文章(たしかそんな印象)による卒制の案内が届いたし、今日は卒業学生の一人から是非足を運んで欲しいという丁寧なお電話を自宅で受けびっくり。その誠実さにも押されてのぞいてみる。今まで見られなかった年もあったものの結構、卒制は見ている。今年もそう大きく変化したとも感じられないし、それはいい意味で伝統が引き継がれているものだと思うし、厳しく見ればレベルに変化がないともとれよう。そんな中で表現するということの根幹をなすものへ眼差しを向ける地味ながら確実な視点を持つ発表をいくつか見つけられたことは、今後への期待につながる。15日まで。

(2005.3.8)アートフェスタいわて2004 岩手芸術祭選抜展オープニング 岩手県立美術館 平日で公立高校入試の日、昨夜からの雨まじりの天気も回復に向かい一気に春を感じる。だいぶ遅れて到着。そんなわけで人出もやや少なめ。会場を急ぎ足で一周するが、昨年とまた違い、自分が出品しているとなると見かたも違ってくる。それは自作はさておき会場全体が気になってしまう。アートフェスタは今年度の岩手芸術祭の各部門受賞作品並びに部門推薦の作家の作品120点以上で構成。広い企画室全体が十分にスペース的には埋まる。各部門作品を絞り込んできているのだが、個人的印象としてはまだ散漫なところは感じる。作品がそろっているというより、作品に抑揚があまりない。どうしても展示にめりはりが付けづらい(公募展にありがちな)。部門の出品者数で推薦作品数がきまるようだが(それによって自ずと作品の規格も決まるのか)、数だけを求めると画一的な作品が結果として多くなるのかも。あとは皆さんの感想もお聞きしたい。根本、吉田担当学芸員はじめ館側の温かい配慮には感謝したい。ご苦労様。21日まで。
 第25マンガ展 ギャラリー彩園子 「世界遺産」がテーマ。今年のお題が難しかったのか出品者激減か。しかし会場は十分に笑わせ考えさせる。アートのフォーマットを自分で決めている人にはあなどれないぞ。特に大人?の作品が面白かったが、胃袋のシルエットの中にきれいな地球の写真をコラージュし、一言「遺産過多」これには笑ったし、マンガ展を地元局が報道したらこんな「東北でもこんなマンガ展はここにしかありません。」(正確には覚えてませんが)感じといった日めくりのテロップが微妙に表現を変えながら笑いを誘う作品とか、某平山総長の偉業を延々とたたえた展示などマンガ展ならではの面白さ。 12日まで。

(2005.3.6)アートフェスタいわて2004展示立会いのため岩手県立美術館へ。インスタレーション部分の多い、現代美術部門は館担当学芸員と相談しながら展示を行なう。アートフェスタも今回で二回目、スムーズに?位置決めが進む。内容は八日のオープニングで。

(2005.3.5)磯崎 新 版画展−百二十の見えない都市− もりおか啄木・賢治青春記念館 同館の国重要文化財指定記念という。百二十のーは磯崎新が今後十年間、氏のテーマである「見えない都市」を版画240点とエッセイ120篇で表す壮大なプロジェクト。今回その初年度分の版画24点とエッセイ12篇による。建築家のデッサンや素描といったものはつまらない場合と逆の場合がある。つまらない場合とは図面やパースを絵画的に仕立てただけのものだったり、勿論図面がそれ自体で美しければ何の装飾もいらないのだが。氏の場合は後者で、図面と離れたところのデッサンやスケッチにも画家のそれを思わせる上手さが見える。しかしいやみさはなく、不自然ではない。そしてそれ以上に各都市について綴ったエッセイには魅せられる。実在する都市、失われた都市、空間の中に存在する都市・・・そこには氏の都市への愛情、建築への熱い想いがあふれている。エッセイもシルク刷りで、エッセイにリトとエッチングによる版画二点がそえられる。27日まで。
 L'expoition pour vous remercier-感謝を込めて・収蔵作品展 盛岡クリスタル画廊 常設とも違う、タイトルにもある思いが伝わる。30人位の作家の作品だろうか、お馴染の顔ぶれだが初めて観る作品も多く楽しめる。余裕があれば欲しい作品も多かった。26日まで。

(2005.3.4)アートフェスタへの出品作品を県立美術館へ搬入。また西村運送さんにお世話になる。2tトラックに積み込み、自分は先に美術館に着くつもりが、ゆっくり走って
くれたトラックと同時に到着。信号でことごとく止まったため。館では手馴れた日通さんがやってくれる。実際の展示は6日になる見込み。
 橋 大助 写真展 界底 ダニーハ(Donnyha) 第一期と第二期に分けての写真展。ダニーハは70年代テイストあふれるgoodな空間。壁面から天井までクラシカルな淡いブルーの店内?に小さめな写真パネルが約10点とインテリアに溶け込んでポストカード大の作品も見られる。今は第二期の展示のようで”廃墟”をテーマにした作品群。被写体はおそらく松尾鉱山跡地の朽ち果てたコンクリートのアパートだろうか?ソフト目な画質だが全体的には硬質な印象。インスタレーション的な見せ方をしていた平面(絵画)を彩園子で以前観ているようだ。

(2005.3.1)千葉久美子 展 伝わらなかった言葉 ギャラリー彩園子 どこか不安げでこわれそうな空気が漂う会場。何か最近のペインティングに共通して見えるコンテクストなのか、感傷的な気分にふられると、重い空気につかっているようだ。作品は結構描き込んだユリの花や極端に省略化した風景の一部など様々で、パネルのみの作品は低い位置に掛けられている。全体としてはテーマを感じさせるが、ディテールに眼を移せばちょっとましまちにも思える。5日まで。
 奈良 桐人 展  眩 ギャラリー彩園子II ギャラリーIIのスペースを暗室にし、約3×5メートルはあろうか、プロジェクターで自作DVDを流す。映像はとりたてて特長も感じないような雪原の風景や岩場に雪が積もった光景?などが、まるでヘリコプターの回転する羽が視界を一定間隔で遮るようなコマ撮り感覚を生みながら、点滅するような映像の連続を見せる。決して見やすくも、心地よくもないのだが、日常の感覚では有り得ないような視覚の不自由さが逆に見る事に向かわせる気がした。5chサラウンドだろうか鈍い爆音も映像とシンクロし、なかなか良い。5日まで。

(2005.2.28)6日展示のアートフェスタ(岩手県立美術館)の準備をよそに、現存する作品のデータ整理を行う。出来るだけすぐ取り出せる様に梱包し、作品名ラベルを貼り、別ファイルに写真とサイズや出品展を書き込むのだが、試作や失敗作(失敗と思わないところがこわいのだが・・)の扱いが困るものだ。タイトルを付けるべきか、単に没にするか。過去の写真データは5年前までは完全にアナログだったことにも気づく。フィルムは撮影の無駄も多かったが確実にものとして残るが、デジタルは誤れば一瞬にしてデータが消える。デジタルデータをプリントアウトするか、まめにバックアップしないと、撮ったことで安心していることも多い。それにしても作品がこれしかないのかとも思ってしまう。今まではコンセプトや新しい見せ方の方法にばかり気が向いていたが、過去の作品を見返すと、まだまだこの方法で出来ることがないかと最近は思うようになって来た。それが意識の停滞なのか逆行なのかわからないが、そこからまた見えてくるものもある気がする。

(2005.2.26)磁気状況part1 小笠原卓雄・村井睦平 ギャラリー彩園子 再び。村井さんの作品は会期一日早めて終了。後片付け中。結局二列の氷の塔は左側が土曜日、残りも今週の水曜に壁側にきれいに崩れた。水曜だったかにものぞいたが崩れた直後だったようだ。会期中に跡形もなく消えてしまう作品というのも潔い。二階には制作過程と展示中の経過が写真で展示中。

(2005.2.19)sur|FACE 14人の現代建築家たち アートシネマ上映会 岩手県立美術館 在日オーストリア人ジャーナリスト、ローランド・ハゲンバーグとドイツ生まれの映像作家、クラリッサ・カール・ノイベルトが、自作に出向き語る建築家たち14人の発言をルポルタージュ。その美意識を「外国人」の視線で捉えた、日本のトップ建築家14人の実像に迫るドキュメンタリー(案内のチラシより抜粋)。現在開催中の世界の美術館展とタイアップした企画だが、取材者の視点と映像的にそれぞれの建築に視線を向けすぎないところがかえって建築の内面を浮き上がらせていて興味深かった。特に20世紀の画一的結果をもたらした近代建築と都市の機能化を求めるあまり貧富の二極化や機能の色分けが進み過ぎた都市計画の見直し(共通して指摘される)の視点から21世紀の建築、そして都市に込めた14人の建築家の思いが熱く語られていることが建築を見せられるよりも説得力を持って迫る。
 菅野 修 原画展 ギャラリーla vie 雑誌「ガロ」で有名な菅野修さんの最近のアクリル画?を含めた過去の原画原稿や表紙原画を展示。根強いファンが多い。懐かしいとともにまったくスタンスを変えずにいる姿勢は驚かされる。CG全盛の時代に、紙に擦り付けられた黒インクの内に、底なしのような人生の暗さとともに、社会の底辺にいる人々への想いや痛みが愛情を持って描かれている。時代は変わっているように錯覚するが、根底には変わらない人々の生活や営みがあることを気づかせられる。
 磁気状況展 ギャラリー彩園子 村井さんの氷の作品はさすがに会期6日目、解けが進んでいる。床面は防水シートが効かないのか入り口付近まで浸水。バケツで汲み出さないと大変なことになりそう。氷自体は左側の塔?が大きく左に傾き、今にも崩れる勢い。まだ相当な重さがあるので壁を直撃したら大変だが、村井さんはそんな状況もさして気に留めていない模様。

(2005.2.14)常設展 MORIOKA第一画廊 堀内正和や菅木志雄、舟越直木、宇津宮功・・・など新鮮であった。また1931年頃?の橋本百八二の油彩が所謂、見慣れた岩手山の描き方と違い、色彩的にも魅力を感じる。上田さんには失礼ばかりしている。
 2000シリーズVol.6 磁気状況・2005 Part1 小笠原卓雄・村井睦平 ギャラリー彩園子I・II 注目されるのは、何といっても彩園子オーナー村井さんの状況展初出品である。菅木志雄と同期の”作家としての村井さん”は30年以上もわれわれの前から封印されていた。暗黙のうちに「彩園子」がその細部まで村井さんの作品であると作家時代の村井さんを想像しては重ね合わせてきた。そして今回の出品。正直驚いた。出品自体にもだが作品を眼前にしてこれはまさに”もの派”の再来に思えるからだ(ここで”もの派”を引き合いに出すのはどうかと思うが)。真木、田村画廊での蝋や木炭?を用いたインスタレーション(まだインスタレーションという言葉も一般的ではなかった)は写真では断片的に知っていたが、今回は当時でも成し得なかったヴァージョンらしい。ここ一ヶ月駐車場に車一台分以上のスペースで制作準備していた謎が徐々に解けた。作品はコンパネサイズ以上に感じるが厚さ10cm近く思える天然の氷の板が15段が二列に空間の中央に積み重なる。床には黒色の防水シートが全面に敷かれ、壁の立ち上がりもガードする。つまり深さ30cm程の仮設プールの中で刻々と氷が解け出している。しかし分厚い氷の量魂はそう簡単に解けそうにない。角がやや丸みを帯びた不定形を予感させる冷たい光の塊は、光を反射するその瞬間、確実にこの世界に時間が経過していることに気づかせる。そして何よりも約5トンという駐車場でつくられたこの天然の氷の物量とともに、一気に氷となったこの物質の変容と再び元の水に還る時間軸上でのドラマに、この地でしか出来ない劇的なインスタレーションを見せる。ギャラリーIIの階段に無造作に立てかけられたコンパネ(数えると60枚か)の山はどうやら木枠の役目に用いられ、手製の透明ビニール袋に水を入れて挟み込んだのではと想像する。どうやって会場に入れたのかも謎だが、会期中どう変容するか目が離せない。
 個展形式の会場IIは小笠原卓雄氏。ここのところ続けて発表しているインテグラシリーズの光源を宿したインスタレーション。前回は背板と座板のない骨だけの学校の椅子に蛍光ランプを仕掛け、シルエットを消すように白いブロードを掛け、構成したインスタレーションだったように記憶するが、今回は椅子の部分が針金で三角柱状に組まれている。
内部には白色と白熱色の二種類の光源。同じく覆い隠すように白い布が掛けられるが、その数は30個くらいあったか。間に橋渡しのごとく厚い白木を廻らせ、自由に板上を歩ける。その感覚はこの世の出来事ではないような、なぜかわたしには”死”のイメージが付き纏う。卓雄さんの作品は物と物との関係性を計算し尽くしたたソリッドな方法で端的に示すが最近はナイーブな部分が見え隠れする。26日まで

(2005.2.12)LANDSCAPE The Former Island もとの島 せんだいメディアテーク 関口敦仁、中原浩大、高嶺 格 三人の作家による。三人の内、関口、中原は世代的にも近く、最近の仕事を久々に観る機会となった。80年代のインスタレーションは置いておき、最近はより洗練されたというかインタラクティブな展開になっているのか?「系」という言葉を引いて、自然や社会の見えないつながりの背後に潜む意味の発見、連関をテーマにしているということか?かなり広い空間を与えられた三人の異なる方法論は興味深くもあるがぎゅっとしまって見えてこないのも一方である気がする。美術館やその展示空間が巨大化することで作品がそれに合わせて変化しているのか逆なのか・・・。2月28日まで
 
(2005.2.11)「美術館建築の現在と未来」講演会 講師:太田 康人氏(神奈川県立近代美術館普及課長) 岩手県立美術館 現在開催中の世界の美術館 未来への架け橋展 関連イベント 90年代以降の現代建築の流れをその根底にある三つのタイポロジーの視点で指摘。三つの視点とはフランク・ロイド・ライトによるソロモン・R・グッケンハイム美術館に見られる建築としてのダイナミズム、ミース・ファン・デル・ローエのこの上ない建築における美しい透明性(民主性)またはフレキシビリティ、ユルゲン・ボーとヴィルヘルム・ウォラートによるルイジアナ美術館湛える内的静穏といった内容だったように記憶する。それが71−77年のレンゾ・ピアノとリチャード・ロジャースのポンピドゥーセンター設計へと繋がっていく。鑑賞のための不適切性、不便性も時にはその建築がもたらすダイナミズムが優位に立ち得ること、建築における透明性とは閉鎖的空間からの開放であり、あらゆる制約、制度に束縛されない自由さ、建築的には建築の構造性を端的に曖昧にし、建築に新しい価値をもたらすことなど個人的にも建築への興味が再燃している。

(2005.2.10)柴田 外男 展 石神の丘美術館 一戸町出身のグラフィックデザイナー柴田外男さんの現在までのポスターデザイン、グラフィックデザイン、イラストレーションなど約100点による。切り絵やカッターで切り落とした形をステンシルに用いた原画は、展の「ふるさとの心を描く」というサブタイトルがぴったりくるなんとも岩手らしい?温もりに溢れる。題材も現代的なモチーフより使い継がれている古いものに愛情が注がれる。色彩的にもビビットな配色より中間色を用い、彩度も低い。それがなんとも素朴なキャッチコピーとマッチして”岩手な”感じを醸し出す。技術が高くても画一的なデザインに向かうのではなく、手の頑固さが残る仕事はめっきり最近見なくなった。ここ数年の手描きをデジタライズした作品も逆に面白いが、初期のカレンダーデザインなどに郷土へのやさしいまなざしが素朴な表現の中に力強く生きている。2月13日(日)まで

(2005.2.7)この前ダウンしたwinノートPCはついにリカバリーCD-ROMでフォーマットし直す。その前に出来るだけデータをのこそうとFD数枚にコピーし、去年からCDにバックアップしていた画像データと合わせて、なんとか最小限に被害をくい止めた。それにしてもまっさらなPCノートは軽くなり、いかに重たく走っていたか実感できる。こうなると内部メモリーやHDにまたデータを積み上げたくなくなってくる。数台のPCに役割分担させるのも理想かと思うが・・・。というわけでiMacはWeb用、COMPAQはHP作成と画像の格納に、iBOOKは仕事とiTuneに、DynaBookは仕事のサブというところか。

(2005.1.22)伊藤暢浩 展 ギャラリーla vie −漠然とした不安−と題された作品は身近な?人物を対象にしながら、どこかけだるくピントの合わない不完結さと、それでいて神経の細やかな印象も抱かせる。おそらくキャンバスに無造作に描かれた油彩による人物達はそう必然なく選ばれ描かれいるのだろう。ただ言い知れぬ不安と目に見えない押し寄せる気配のようなものが描くという衝動を与えているのだろうか。最近オープンしたg la vie II studio LOGICOにもドローイングが展示されていた。29日まで。

(2005.1.20)新PCにHPデータダウンロード完了。転送試験中。と言うのはWinノートPCがついにダウンしてしまい、ここ数日は復旧を試みたが5年前のスペックに積もり積もったデータや不要なアプリの蓄積が起動すら不能にしてしまった。Safeモードで立ち上げても、外付けのCD-RWには反応しないため必要なデータさえ保存不能なのだ。昨年も何度かあったが、デフラグやスキャンデスクで不具合を修復、またウィルスバスターも役立っていた。ところが常時監視のそうしたソフトもメモリーには負荷となり、極端に動きが鈍くなっていた。数日費やすうちに買い替えに気持ちが動き、昨日、液晶ディスプレーとCOMPAQ DESKPRO STATION(中古)を即決(PenIII、256MB、20GBとまずまず。何せ5年前は6GBしかなかった。iMacも6GBになんと32MB。隣に同機種40GBもあり迷ったが、店員の説では20GBを40GBに増設してるのは使用頻度が高かったのではとのこと。値段に大きな差がなかったので惜しいことをした気がするが妙に納得してしまった。今や40GBもスタンダード。)。さっそくFTPツールでサーバーよりデータをダウンロード成功。サイトの作成、転送設定を確認して再度UP。今のところスイスイ動くので快適。WindowsXPなり。

なんとも作業効率のわるいPCコーナー。厳寒期は寒い部屋に置いておくのは不安なので一箇所に集合。
いやまだあるのだが・・・。

(2005.1.14)県境 湯田付近は背たけを越える雪・雪・雪。盛岡は小雪、暖冬。


(2005.1.12)TODAY'S ART TEXTILE FORMATION XIX Gallery 彩園子 第19回目を数える。毎年このギャラリーでも見ることが出来る。東京会場をメインに福岡、鹿児島、盛岡で展開。盛岡展は四人の出品。これだけいろいろな展開を何年にもわたり見ていると、テキスタイルの現在形にも目が慣れるというもの。一見シェープドキャンバスによる絵画的なアプローチや従来の織りにファイバー等を織り交ぜ素材の違いとともに”織り”の意味を混存させたものなど興味をひくが、小熊律子さんの麻を素材にした素朴な形態は、織るという原初的なアプローチを最もそのままかたちを持って見せてくれる。

(2005.1.8)佐藤一枝 展オープニング クリスタル画廊 シンポジウム参加等で石彫経験の豊富な一枝さんだが、最近はリアスアークでの発表など石にこだわらず、鉄やその他の素材も柔軟に扱う。特にインスタレーションのスタイルでは空間性を感じさせ、作りすぎずに”ぬけのある”ところが石彫では表せない魅力に思えた。今回石彫のみの展示は、丹念にカービングし磨き込まれた波をイメージさせるような形態(海に最も近い場所で育った、一枝さんにとっての原風景なのだろう)。眺めているとその連続するうねりは、大理石の美しい白く透きとおった石目により、美しい波のうねりにも、私にはモーグルバーンにはり付いたコブ(スキーの話)の連続に見えてしまう。なかなか美しいと思うがインスタレーションと比べると彫刻として収まってしまう気もする。それは素材の制約がもたらす部分と、彫刻に向かう際の意識の違いからなのだと思う。同じ作家の仕事でも見え方はだいぶ違う。

(2005.1.4)世界の美術館 未来への架け橋 岩手県立美術館 オープニング 「建築」をテーマにした展覧会はよくあるが、美術館での美術館建築をテーマにした展覧会はもっともなようで、複雑な感覚を生む。それは美術館において主役は美術作品であり(そのことは変わらないわけだが)、美術館の機能とは芸術を芸術として成立させることだけに向けられていたためだろう。しかしこうした従来の器としての美術館から、20世紀、特に1977年のポンピドゥー・センターの完成以降の美術館建築の方向性は大きく変化した。ポンピドゥー・センターにも見られる脱建築、本展に合わせて刊行されたカタログ中の安藤忠雄による序文にあるポンピドゥー・センターを例えた「無限定」という概念の変化は、美術館を単に美術愛好家や特定の知識人のものから間口を広げただけではない。都市のランドマークとしての美術館の持つシンボル的役割の再認識と美術館が旧来の美術の殿堂的な側面だけではなく今後考えられる多用途な目的に耐えられる懐の深さを必要とするとともに美術館が都市の中で新たな生命体として成長し得る可能性を持ち得ることを指し示しているのだと思う。フランク・O.ゲーリーのグッケンハイム美術館、ビルバオ(スペイン、ビルバオ、1991−1997年)に見る都市に異化を与える圧倒的な異物(場違いとまでカタログ中で言わせる)としての建築は、美術館を日常から切り離し、または劇的空間に導くドアとしての建築の意味は達成されよう。金属質を輝かせるメタリックなうねりは建築自体に強烈な個性を与える。もはやポンピドゥー・センターが示した「無限定」といった、捉えようによっては曖昧な建築の位置付けを否定し、ビルバオでは都市に建築という楔を打つ。航空力学によって機体を設計するための3G工学を建築のすべてのディテールに用いたというその設計は内部の居心地を想像する前に我々の意識を釘付けにする。このビルバオと対照的に思えたのがピーター・ズント−のブレゲンツ美術館(オーストリア、ブレゲンツ、1990−1997年)だった。この美術館設計は「・・・新鮮に思われるのは建築の演じている役割である。つまり建築は、この建物の目的ではないし、コンテンツでもないが、芸術の前で自己否定しているわけでもない。ズント−は、両者の共存する絶妙なバランスをとることに成功している。事実上、相互的な影響がそこにはある。それはもっぱら芸術のみのために建てられた、芸術としての建築なのだ」(本展カタログより)に言い表されている様に、ほのかに内部の空間(美術館としての機能)を暗示させる光を宿したキュービックな構造は完璧なまで建築としてニュートラルな立ち位置をキープする。しかし一見その孤立して閉鎖的な建築は極めて計算され、立地における普遍的な歴史を経由して建築の意図を明確にわれわれの眼前に
露わにする。2月27日まで

(2005.1.1)
謹賀新年 新雪の元旦。久々に本格的な降雪。昨日は関東以西でも雪で、この時期にしては数十年ぶりという。太平洋側での大雪は暮れにはめずらしい。昨日も雪が降る前はキンキンに冷えていたが、雪が降り出すとどこかあたたかくも思える。気候もどこかでサイクルがずれてきているのかもしれない。それにしても来年はと思う間もなく新年になった感じ。スローな思考と生活を送りたいものだ。

(2004.12.27)澤田哲郎を中心に MORIOKA第一画廊 コレクションによる常設展示? 澤田哲郎の1930年代の初期作品が初々しい。

(2004.12.26)階段主義 伊藤キム+輝く未来 ダンスパフォーマンス 16:00〜 岩手県立美術館 岩手県立美術館グランドギャラリーは回廊を思わせる陸上競技ができそうなくらい長い吹き抜けの廊下と間合いをとった大理石の階段をもつ。ここが今回のステージであり、ステージや舞台とは違う、日常の空間(人々が行き交い、歩く、走る、座る、立ち上がる等の様々な人間の行為が自然に現れる)をある意味象徴する場所なのだ。階段主義とはそうした脱ステージ構築という観点と何よりフラットでないだけ観る側にも、ダンサーにも変化があるそうだ。総勢30〜40人(その内カンパニーのダンサーは7、8人位)だろうか白いシャツに黒いパンツといった出で立ちで長いスパンを効果的に活かして目まぐるしく踊る。最初、等身大の彼等の存在感はそれほど感じられなかった。それはやはり美術館におけるグランドギャラリーの機能がそう簡単には日常を映し出す鏡には見えてこないことと、ダンサーの呼吸が無機的(人工的)な空間にとどくまではある時間が必要だった。しかしそんな思いも後半にはしだいに薄れ、ダンサーの身体がよく踊りにかみ合っていくことを感じた。伊藤キム氏は最後に登場したが、演出、振り付けによって氏の言わんとする「日常のなかに身体を放り込む」というコンセプトは見えてくる。実験的な取り組み(ダンサーにもこのようなイベントを美術館内で行うという)だったが意味は十分にあった。

(2004.12.19)昨日県内の3スキー場が部分オープンの新聞記事。それも八幡平、安比は不可。特に岩手山の火山活動のため7年間閉鎖され、前の経営会社が撤退し、今年新規参入する岩手高原スノーパークオープンの知らせに目がいった。県立美術館経由で岩手高原へ。とにかく私の場合、装備を整えるのに10分とかからない。一式はインヴィクタのリュックに一年中入っているし、ショートの板とモーグル用のストックに未だに使っているラングのX9Racingはいつでもスタンバイだ。県美から40分たらずでゴンドラに乗車、第四リフトのカルガリー第一コースとスコーバレー第一コースのみのオープンながら1時間ちょいのライド。積雪は20〜30cmながら奇跡的に?コースにだけは最低限の雪を張り付けているその自然の力とコース整備の意気込みは感動もの。一般の人はもっといい条件でなければ滑りたがらないが、県内でいや本州でこの雪不足の折、一番に滑れるだけで十分。ソールを見ると深いキズが無数に!岩場でもないが避けられない小石やブッシュはしょうがない。後でリペアーしないと。

(2004.12.17)中村太樹男絵画・版画展 ギャラリー・リリオ 古典的な洋画の描法をベースに緻密なファンタジーにあふれる絵画世界。中村太樹男さんの絵からはそんな印象をまず持つ。実に均一で完成度高く職人的に仕上げられた絵肌を見ていると描いたものを写真に撮ったかと思ってしまうほどだ。その感覚はスーパーリアリズムの作品から受ける印象とは意味が違う。後者は写真のように絵画にすることであり、この場合描いているのに写真のように見えるのだ。中村さんはプロの画家である。では自分を含め絵で生計を立てていないものはプロではないのか。絵で食えないのだからプロではないと言われればそれまでだが絵描きにプロという肩書きがつくとどこか遠いところにいる職人のように思えてくる。技術的に高く、様式が確立していることが逆に、立ち入る隙を与えない気がするのは自分だけだろうか。隙だらけの絵を描いているものだから・・・。
 池田 良二展 盛岡クリスタル画廊 展のDMから受けた印象はブラシストロークかスキージーによるかすれをいかした抽象作品(版画)に思えた。色彩も基本的にはモノクロながら赤味がかったブラウンが美しく、実際の作品を見てみたいと思わせる。ベタで塗りつぶされた部分とかすれた部分に作家の意識の集約を見る思いだ。今回実際の作品を見て思ったのはDMでは単純化されて見えるインクの帯びが、実は写真製版された実風景の部分であることの発見だった。単純な色の帯に(DMで見たニュアンスのある明るいブラウンはどうもゴールドだったようだ)様々なモチーフがオーバーラップして見ることを複雑化する。タイトルと合わせて見るとよりその物語性を読み解くことに向かわせる。刷りの完成度も高い。ただ最初にDMを見たときの印象が離れない。

(2004.12.15)昨夜は小雪がちらついたもののまったく積雪を見ない。岩手山は遠目には白いが近くで見ると網張や雫石も申し訳程度しか雪がついていない。これだけ山の降雪が遅いのは記憶にない。10年以上前は11月の下旬に各県内の主要スキー場はオープンし、12月の一週目でほぼそれ以外のスキー場もオープンする。12月の中旬と言えばクリスマス前に多くのスキーヤーが初滑りを終えるが、今年はどうだ、八幡平ですら人口降雪機が使えないのか?オープンどころの状態ではない。当HPのリンク集で”APPI”をご覧いただければライブカメラで悲惨な状況が見て取れる。人口降雪機を稼動させても日中の暖かさで解けるだけのようだ。明日の後半あたりから冬型になる見込みだが40〜50cmの降雪がなければスキー場のオープンは今週末も延期となる。今年は台風に地震、そして暖冬(まだ結論を出すのは早いが)と、かつてないことだらけなのだ。都市郊外のスキー場はスキー営業をゴルフに切り替えた、やはり暖冬の年があったが、県内の大型スキー場はシーズンが短くなることが深刻な問題なのだ。

(2004.12.14)本田 健展 諄子美術館 本田さんのチャコールペンでのドローイング以外の主にOil Paintによる盛岡では未発表の作品を中心に。もう本田さんの油による作品は二、三度見ているが、展示はチャコールペンシルの緻密で繊細な表現とはある意味対極にあるこってりとした質感を持って山暮らしの中で発見したごくごく私的なよろこびのようなものがシンプルな形となって抽象的に描き出されている。最初かなり戸惑うのだが厚く塗り重ねられた時間の層にチャコールペンでは描ききれないもうひとつの山の時間があることを思わせる。どちらがどうと言うよりも二つの違う表現は個人的にはわかるところはある。ただ写真機が写しとったような写実的に描かれた(実は写真を元に手描きすることで「写真」の領分から切り離しているのだと思う)表現とモチーフを単純化し構成(意識を油絵具を塗り重ねることに集中させる)する際に働く精神性とはチャコールペンと油という違い以上に大きな違いの様に感じる。会場奥の常設展示のコーナーにまとまったチャコールペンの仕事も見られ、対比できるのも興味深い。12月25日まで 月、木休館 11時〜4時まで

(2004.12.10)このところ展覧会カタログが山積み状態で、このヴォイスにもさっぱり書き込めないでいる。マティス展、草間展、田原桂一 光の彫刻展(DVD付き)、人見東明とフュウザン会絵画運動、旧朝香宮廷のアール・デコ、知られざる勝平得之展、ロバート・ライマン展、興福寺国宝展、グッケンハイム美術館展・・・・などなど、それに加えて県立大学での五回ものの非常勤の講義準備と落ち着かない。制作もペースに乗らないとまったく手につかないタイプ。

(2004.12.4)草間弥生 永遠の現在 展 東京国立近代美術館 再評価の気運が高まる中ここのところ大規模な回顧展が続くが、決してこの作家の場合、所謂初期から近作まで順に並べた回顧する意味は、似つかわしくない。1929年生まれで70も半ば過ぎながら近作はますます元気だからだ。最近の展では森美術館でのクサマトリクス、東京都現代美術館での大規模な展示と記憶に新しい。前回の森美術館は正直、テーマパーク化してインスタレーションは会場含めて張りぼての様で表面的な印象が強かったが、今展は作品にも落ち着きが漂い、観る側もゆっくりと作品に対峙できる好感の持てるものだった。展の企画構成者である松本透氏が講演の中でも語っていたように、そう広くない仕切られた各スペースは視界に入る範囲においてまずは統一感と独立性が保たれ、細部にも神経が行き届いているのがわかる。どの時代もいきなり完成度を示しているのが特長であるが(松本氏)、今回特に白の網目の作品にひかれたが、彼女の作品は、一方的に作品から発するものを受け取るだけでは理解できない部分がある。彼女の作品を通して作品の内側から”世界”を見ようと意識したとき急に身近に感じられる気がし、その異常なまでの精神性もごく自然に受け入れられそうに思えてくるのだ。

マティス展 国立西洋美術館 これも後日の書き込み。どうも大きな展覧会を複数見るとその後に思い出そうとしても適当な言葉が浮かばないような、もう見たことで十分という感覚になる。マチス展もそんな感じで、言葉にすることに対するノリがわるい。言えることは我々が知っている「マティス」という概念と実作品またはマティス自身とには相当の隔たりがあるということ。マティスについてのイメージは階段装飾として「音楽」とともに制作されたというこの時期の人体表現の到達点と言える「ダンス」(1910)と折り紙を切ったかのような超平面的な単純な切り絵の連作くらいで、ピカソほどは案外浮かばない。しかし今回まとまった作品に出会って感じたのはマティスは意外にも立体作品を数多く、それもマケットなどという程度ではなく本気にこんなでかいレリーフどうするのと思うほど作っていた発見だった。このことは美しい青のガッシュを塗った紙を切り取ることで表現した「ブルー・ヌード」を見ていても、「切り紙絵は彫刻家の直彫りを想起させる」と語っていたマティスの言葉とも重なる。

ヴォルフガング・ティルマンス 展 東京オペラシティアートギャラリー  展のリーフレットも数パターン作られかなりの力の入れ様だ。そんなにはこの作家についての知識はないがだいぶ前に名前とともにファッション・カルチャーにおいて作品は鮮烈に印象付けられていた。ファッションと結びつけるとどこか表面的な扱いになるのだが、90年代初頭から顕著に読み取れるアートとしての写真のムーブメントは、それまでの重苦しい「写真」という二文字をごく身近なものにしたように思う。そんなトレンドの中心にティルマンスもいた。展示は写真という媒体を用いながら、デジタルワークによって大延ばしにされることで「写真」という概念を軽やかに塗り替えるかのような印象を与える。あれだけの空間に、ロール紙に巨大にプリントアウトし継ぎ合わせ、無造作に壁にピン止めしたような作品がぽつぽつとあるだけで作品として成立させてしまう。その見せ方は今日よく見かける平面作品(ドローイングなど)のインスタレーションのスタイルだ。そんなところも妙に時代の空気を感じさせる。作品は日常のさりげない現実を美しく捉えながらも、どこか不合理で危うさを湛える。出品作品の中では小品の部類だがコンコルド機が離陸か着陸なのか低空で街をかすめる静止したかの様な数点の連作が特に印象深かかった。

田原桂一 光の彫刻 展 東京都庭園美術館 目黒駅から陸橋を越えて歩道を埋め尽くすイチョウの葉を踏みしめ、庭園の入口まで7〜8分、やがて今展のために11月に搬入されたと聞く、田原の光を宿した野外彫刻が出迎える。旧朝香宮邸の玄関にはアールデコ様式を象徴するようにルネ・ラリック(1860-1970)の美しいガラス・レリーフが据えられている。その内部空間は日本にいながら遠い異国の地に迷い込んだような不思議な折衷感がある。田原の作品はまるでもともと空間に合わせてつくったかのように在る。二十代前半にパリに渡り日本より海外での評価が高い。その手法やプロジェクトの規模は日本人離れ?している。彫刻家なのか写真家なのかデザイナーなのか日本人はこだわるが、そのどれでもある。光を掴むために手法を選ばない。ギリシャ彫刻の部分やロダンの彫刻を巧みなライティングワークで撮影し、石板に感光剤を塗布し焼き付けた作品などを見ていると、どこまでがオリジナルなのかと思ってしまうが、ロダンもこの場合光を掴む道具であり、素材と化させるあたりそう日本人にはないタイプなのかもしれない。

(2004.12.1)藤村勝美 展 武満徹についてのひとつの位相 喫茶ヌック 作品を観るということにおいてそのとっかかりは重要だ。DMやそのふれこみで観る前にイメージをつくる場合もある。藤村さんの作品は絵具ではない素材を用いて絵画の形態をとっていて興味を持った。また今回は漆喰だろうかパネルに壁塗りする際、画面のやや中央寄りにこて塗りの過程を想像させる塗り残し?の層を見せる。暗い会場で陰と明のバランスでシルエットが浮かび上がる。等高線モデルのようなその断層は静かに陰翳を気付かせる。ただそれは非常にプレーンな印象なのだ。

(2004.11.30)田中啓介 展 ギャラリー彩園子 和紙を漉く過程で複雑に編んだ紐や古布など数種類の素材が織り込まれている。それらの造形から何か呪術的な意味合いが見えなくもないがまあたらしいパルプの質感は深読みをさせない。それが清楚な印象でもあり、素材そのもののようでもある。
 沢村澄子”遊びの印”展3 花・百顆 クラムボン 書家である沢村さんの百の「花」という一文字を陶印と石印により表現した作品展。自作による大きさも色合いも一点として同じもののない陶板の額が一文字ずつ異なる「花」の姿を象徴的に表している。書も数点並ぶが今回は印が主役。小さな「花」の一文字に沢村さんの「花」への思いが見えると同時に、「書」も「花」のようなものであると言っているかのように見える。何ものにも束縛されない自由さが小さな一文字にも感じられる。12月4日まで

(2004.11.28)LOTUS BLOSSOMコンサート ワルター・ラングラー&室舘 彩 岩手大学農学部 農業教育資料館 2F講堂 ワルター・ラングラー(ジャズ・ピアノ)と岩大特美卒のシンガー 室舘 彩による。ワルター・ラングラーの来日を記念した日本ツアーの二番目の演奏地が室舘が大学を卒業した盛岡となった。彼女があこがれと表現する大正元年に竣工された盛岡高等農林学校の本館は今は資料館となっているがあの賢治も学んだこの場所で、賢治が見たであろう、またもしかすると触れたであろうピアノが再調律され、今回演奏に使用される。室舘自身賢治や啄木に深く影響を受けていることがこの場所の必然を意味あるものにしている。演奏は里帰り公演といった温かい内容。ワルター・ラングラーさんのピアノに室舘さんのヴォーカルが自然と溶け合う。ピアノの音色は決してクリアーではないが当時のピアノがここまで甦ることは控え目ながら聴かせる演奏の質だけでなく新鮮であった。室舘さんの背伸びをしたような伸びやかなヴォイスは魅力がある。言葉を空に拾うように。

(2004.11.23)野外展示 秋田県立近代美術館 秋田県立美術館の屋外展示は最初、エントランスの彫刻広場ばかりと思ったが、彫刻の丘、彫刻の小道と意外に奥行のある見ごたえのある内容だ。約30分もあれば一周できるちょうどいい散策コース。設置作品はどっしりした高田博厚の「水浴」や柳原義達の「風の中の鴉」や清水九兵衛の「登甲」、建畠覚造の「WAVING FIGURE」や内田晴之の「異・空間 1993」・・・と具象、抽象織り交ぜながらも現代の代表作品を中心を並べる。80年代に活躍したなつかしい(個人的に)?高田洋一のかげろうの羽のような動く彫刻もステンレスとメッシュメタル?でちゃんと動いている!それにしても場内に流れるデキシーランドジャズは遊園地なのかと思ってしまう。

(2004.11.20)もりおか啄木・賢治青春館 第14回企画展 杉本 吉武デザイン40年 杉本吉武さんの40年に及ぶ全仕事を網羅したこの展覧会はデザインという領域を軽く飛び越えるような爽快な印象をまず与える。展示されている作品の大部分がポスターであり、実際に目にした記憶が重なるものも多く、改めて杉本さんの仕事の幅の広さと岩手のグラフィックデザイン界に与えた影響力に驚かされる。しかし杉本さんのデザインを最も象徴するのはコンペ用に作られた勝負用?の作品群ではないか。「SAVE AFRICA」シルクスクリーン 1985はじめ傑作を数多く生み出した。杉本さんの作品には常に鋭い社会性が感じられる。社会に対する批判の眼がデザインの原動力になっている。しかし単に衝撃的だったり攻撃的なアプローチではなくテクニックが表に出過ぎることなくコンセプトを明確に余分なものを排除して示すことはそう出来る事ではない。「いい作品には本当のデザイン性が備わっていなければならない」(デザインに限らず)という意味をまさに感じさせるアーティストである。また初期ポスターの手描き原画やIBCで長年制作されたおびただしい数のTVテロップなどからは杉本さんの手の跡が感じられもうひとりのYOSHITAKE SUGIMOTOを見ることができる。12月19日まで(第二火曜休館)

(2004.11.17)板垣崇志 展−絵画、オブジェによる− 朴舘家住宅 一戸町にある朴舘(ほうのきだて)家は江戸時代末期に建てられたという。県指定有形文化財である。その荘厳な佇まいは県でも有数の規模と聞く。古民家の改築や移築保存など最近はよく聞くが、そのままの状態を保存してきた住居はそうお目にかからない。まったく時間が止まったようだ。いまどき暖房もなければ、施錠も、管理人も付近にはいない。来訪者が自己の責任で電気をつけ最低限の戸締りをして帰る。そこには本当の闇がある。各部屋を囲うようにつくられた縁側は心もたない雨戸で覆われ、朽ちた板の隙間から微かな光が昼間であることを教えてくれる。谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」を彷彿させる。板垣さんの漆黒のアクリル画はそんな緊張感を強いる空間に溶け込むように飾られる。絵を観るよりもあまりに”場”の力が強く、不安定な足元に気を遣いながらこの場に流れる過去への時間の矢の速度に翻弄される。
 佐藤幸吉 工作展 ギャラリー彩園子 盛岡で馬賊を開き、菜根亭、大迫で森の国、星耕茶寮を創り上げた佐藤さんは美術家としては知られていない。
しかし佐藤さんを知る人はそんなことどうでもいいことで、佐藤さんの仕事そのものが作品であることを皆が認めている。そんな佐藤さんが大真面目に個展を開く。作品は”敗者復活”シリーズと銘打ったレトロな廃品や現代の廃品(携帯電話のジャンクやビデオデッキのIC基盤など)を画面にコラージュして樹脂やホワイトセメントで固め額装したシリーズを中心に、陶芸、ガラス、木工、家具のリフォームと多岐にわたる。佐藤さん自身が美術家ではないから何でも出来ると言っているように「美術」という枠の中で何かをしようという気構えは全くない。ジャンクによるコラージュは何も新しくもないのだけれど”もの”にこだわることが”もの”を創り出すという思想的こだわりには不思議な賛同と共感を覚える。

(2004.11.13)文化庁主催 第38回 現代美術選抜展 岩手県立美術館 オープニング 今年度は全国三か所の会場を巡回する。最初はどういう展覧会かわからなかったが、文化庁が主催し前年度に全国規模の公募展での受賞作品、文化庁が買い上げた作品からピックアップした構成。昭和42年の第一回から長い歴史がある。展覧会名は現代美術となっているが洋画、日本画、彫刻、版画という純然とした区分け。全体的にはさすがは選抜された作品だと妙に納得させられる。それは共通してテクニックの高さとツボをおさえた作品ばかりなためだろう。日展はじめ公募展に積極的に足が向かわない者にとって、こんな感じかというのが何となくわかりこれはこれで楽しめる。展が現代の日本の美術のすべてではないのだが、一般の人からすれば作品から受けるこの安心感と均一さは展覧会(または美術)というイメージを再確認するに十分な内容なのではないだろうか。今年3月に損保ジャパン選抜展に出品した際に隣に展示されていた岩永てるみ氏の作品は今回のDMをかざる。28日まで
 きよらかな画魂 難波田 龍起 展 MORIOKA第一画廊 油彩・水彩・パステル・石版・銅版・コラージュによる。作品は50年代から80年代までその変化も楽しめる。、モチーフは純度を持って抽象化に向かう。それはたとえ具象的なモチーフが見え隠れする時点でも同じ感覚を覚える。清楚できよらかな作品にはある抽象化の到達点を見る思いだ。30日まで
杉本澄男 作品展 ギャラリーカワトク 1948年生まれの杉本澄男さんは大学の先輩で同期には藤井勉もいる。直接は面識もなかったが平成元年度の岩手県優秀美術選奨の際、一緒に受賞させてもらった。それ以来の作品との出会いか。油彩、墨絵、水彩で表現された絵本の一場面を思わせるような夢にあふれた世界は、主題からはメルヘンとして片付けられそうだが、この作家の仕事はいよいよ熟練の上手さでいい意味でのくせを見せつける。特に油彩のキルティングのステッチのような表面の独特のマチエールは平面でありながらしっかりとした抵抗感を観る側に感じさせ一層テーマを単純なものとして見過ごさせない。 17日まで
 
(2004.11.10)DI・STANCE:ふたつの位置 ACAC アーティスト・イン・レジデンス・プログラム2004・秋である。出品作家は日本人二人を含む五人。展のテーマは出品者の国籍が違っても今日的表現において通底するある共通性を示す。「Sitting(座ること)」を出品しているDagmarPACHTNERは”座る”という人間にとっての基本動作においても国籍やそれにともなう文化背景、歴史性・・・と行為の原動力は比較文化的にも興味深いという。今回の作品では日本における”座”の意味を禅(座禅)に求めた繊細なインスタレーションと対比的に壁面に投影される高速で走り抜ける人のビデオは象徴的に文化の違いを対比する。天井に宙吊りにされた一脚の木製の椅子はスポットが当てられ壁面にそのシルエットを出現させる。ここでも”座る”ということの意味を椅子を借りて喚起させ、目に見えない二つの関係に意識を向かわせる。

(2004.11.7)すがわら じゅんいち展 諄子美術館 1964年宮城県生まれのすがわら じゅんいちさんの展示は展が始まってから展示内容をオーナーの意向もあってがらっと変更したらしい。置き換えられた作品は資料から推測するに、瓶やさまざまなものにスーパーなどでよく買う卵の紙パックの一部を切り取り貼り付けたような突起をもった立体に鉄さび紛をまぶしたようなものだったようだ。現在の展示は箱状の半立体にキャンバスを張ったその表面に不定形な手漉き和紙や木の葉のように見えた?いくつかの要素を鉄さび紛をまぶしながら接着剤(メデュウムだろうか)で固めたものが中心で、なかなか完成度が高い。それ以前の作品もパネル状に角材とベニヤで構造をつくり一部にスリットを入れたり表面を削ったりしながら、鉄さび粉を全体にまぶし素材感を曖昧にしたものなど興味深い。一つの型にはまらず、つぎつぎに作品にできる素質があるのだろう。 11月13日まで 

(2004.11.6)原田拓 展 ギャラリーla vie 空間の中央天井に据え付けられた八角形の骨組みに開けられた無数の穴から木綿糸だろうか糸が伸び、それぞれの糸の先に20cmほどの長さの木炭が吊るされる。木炭は複雑に重なり合いながらも同心円を描く。天井の骨組みから糸は天井をつたいさらに壁面に無数の糸による旋律を刻みながら黒い遮音シートを表面に貼った床面の構造の端に固定される。炭、円、モノクロームの空間と東洋思想を感じさせるが、わずかな空気の振動で揺れるその光と影の演出にまず見る側の意識は向かう。11月13日まで
 筆塚稔尚 展 クリスタル画廊 1957年生まれの作家。先入観なく作品に向かうとまず版画であろうその作品は、いったいリトなのかエッチングなのか区別がつかぬはぐらかしから見るものを迎える。その作品が木版であることに気付くまでに少々の時間を要する。それは木版を用いながら油性インクによるどこか硬質で素材に同化するというより浮き上がる感覚からなのだろう。また何層にも刷り重ねられることで一層そのプロセスは目に見えないものになっていく。画面に現れるエレメントは極めてシンプルでありながら深い精神性と思考を刷り重ねるその手わざには驚かされる。 11月14日まで

 (2004.11.3)生誕100年 知られざる 勝平得之 故郷をみつめる新しい眼 秋田県立近代美術館 勝平得之(1904−1971)を知ったのはいつだろう。そう昔ではない。しかし何とも言えない懐かしさを呼び覚ます勝平作品は何か自分にとっては特別なもののように思えてならない。それは理屈ではない、勝平得之の眼を通してみつめたふるさとに対する不思議な共感なのだ。かつてドイツの世界的建築家ブルーノタウトが勝平を見出した際、土着的なユニークさというよりインターナショナルな風土をみつめる普遍的眼差しに惹かれたように、勝平の仕事はお仕着せではない、郷土の風俗、民芸が語り継がれることに対する誇りの上で成り立っている。そのルーツを遡ると山本鼎が提唱する農民美術運動が注目され1924年秋田県大湯で大湯土俗生産組合(農民美術組合)が結成され、大湯小学校を会場に院展同人の木彫家木村五郎を招き講習会が行われ、得之も参加した。ここで学んだ木彫、風俗人形の技術は後の版画家としての得之の方向性を決定付けたのだろう。農民の木彫りや風俗人形の持つ素朴でいてしっかりとした立体感は得之の版画に立体的な切り口を与えたのだろう。展ではおびただしい数の版画に版木も展示され興味深い。想像以上に分厚い版木は両面彫りで鋭く、また温かく彫られ、独特の色彩効果で秋田の四季を彩る。特に雪国秋田の冬の風物には水色が多用されることが特長だ。これは日本海側特有の水分を多く含んだ雪の色なのだと思う。同じ北国の版画家でも棟方志功ほど強烈でも濃くもない勝平得之の版画はまぎれもなく秋田の風景そのものだと思う。

 平成16年度第3期コレクション展「秋田の洋画-時代の旗手たち-」秋田県立近代美術館

(2004.10.30)柵山龍司 展 日常の向こう側 石神の丘美術館 1928年生まれの柵山さんは現役で現在も制作活動を行っている。制作活動は1950年代に入ってからというが、1950年赴任先の田山中学で理科の予備実験中起こった爆発事故で左手半分を失い、失意の中から美術を知ったという。具象絵画から非具象的絵画へ、そして鉄溶接によるオブジェ、鋳造作品、合板レリーフ、石彫、アクリル画、エッチング、ミクストメディア、CGと実に多岐に活動は及ぶ。また美術家という肩書きよりもサイエンティストという側面で知る人も多い。特に陸貝研究会を主宰し、その道での業績は知る人ぞ知るところだ。作品からは常にサイエンティストによる自然への洞察眼が感じられる。しかしそこには自然をも形成する宇宙に対する強い畏敬の念が支配する。特に最近の仕事はカルト的にさえ思える独自の理念と使命に貫かれている。展カタログに寄せられた作家論はよく氏の複合的な側面を捉えていると思う。そうして作品を見ると様々な技法も化学実験の一つのように思えてくる。11月28日まで
 青野文昭 展 ギャラリーla vie 1968年生まれの青野さんの作品は盛岡でこそ機会はなかったが、リアスアーク美術館などで何度か拝見し、結構強烈にこの作家のやろうとしていることは知っていた気がする。朽ち果てた家の内部に人間の生活の痕跡をかすかに残す生活用具、また海岸であろうか風化しながらもその人工的な素材ゆえに完全に自然に還れないプラスティック製品の残骸・・・・・等々をあたかもそのものがあったであろう姿を巧みな手わざで復元する仕事は、どこかばかばかしくもあり妙に気にかかった。自然とそれと反する人工物との間で、自分を内側に入れるその行為は自然に同化しない全体をとどめない不完全な人工物であるからこそ可能にした方法論なのだ。少し前に見た作品よりつなぎ(復元する)の部分がベニヤ板だったり(隠さず見せている)よりチープなことが変にノン・パーフェクトな感覚をいだかせある意味成功していると思う。 

(2004.10.18)杉村英一を偲ぶ会 杉村英一展-青への軌跡- Gallery彩園子I,II この6月に急逝された杉村さんを偲んで、氏が予定していたギャラリー彩園子での発表と同じ会期で実行委員が中心に展示し実現した。知っていたつもりの杉村さんの仕事は青一色による抽象ばかりで、黒の作品群やステンレスやブリキにハンダ付けした立体、二科展に出品の頃のものと大部分が意外なものばかりであった。つまり自分が同時代に見た作品をもって知ったと思い込んでいた。またつい最近まで現役の教員であったとばかり思っていたが、先生を知った頃には既に教員生活に自らピリオドを打っておられたことなど、後になってその間制作された光を手招きするかのような深い”藍”の作品群ともここでやっと微妙に重なり合った。多くの方が岩手の安家に赴任し体験した”闇”の世界を晩年の杉村さんの作品から喚起するし、杉村さんが”安家で見たもの”をそのまま鏡に写してもって来たいと言っていたとお聞きするが、私には安家の底なしの暗がりの中にどこか深海から光を手繰り寄せるかのような作者の何か回帰性のようなものを感ぜずにいられない。故郷の海(宮古)と安家(山間部)とは近くて遠い永遠の隔たりに感じられたのではないか。

(2004.10.16)岩手県立美術館常設展 秋季展示 前回は新収蔵または初展示作品を中心に見たが、改めて竣介、保武、萬を見比べるのは面白い。萬作品は二人と比べると質がまったく異なる。前者の二人には作品とは完結したものとしてあるが、萬にはそれがあまり感じない。舟越作品も初期の原石の魅力を持った作品もあるが、やはり様式的な美しさを持つその後の作品はスタイルを決定付ける。ただ晩年の体の自由が効かなくなってからの作品は再び素材を手探りで求めるかのようで、初々しいとともに作家に”言い切れないもの”を余韻として残す。竣介作品は画面の構築性や筆致の力強さとは裏腹に極度に張り詰めた氷の(結晶)ような精神はもろ刃の剣を常に私には思わせる。そうして見比べるにも萬作品は異質だ。わが国における抽象絵画の先駆的な道をひらいたとか日本的キュビズム解釈だとか言われるが、一点一点は実に自由奔放に描かれた結果にさえ思え、その筆触や興味の持続の速度は何か今を感じさせる。「宝珠をもつ人」など見ていると、どう考えてもつくられたポーズ(仏像のような様式性)といい当時の室内空間(アトリエ)ではあるが障子を開け放ち、内と外を曖昧にさせ、結果モンドリアンのごとく区分けされた極めて意図的な背景に未完の裸婦が堂々と立つという妙な中途半端さが逆にこれ以上ない単純さと力強さをたたえている。これは未完の絶筆と聞くが、萬にとっては未完結で描き残しはあったにせよ、究極の表現だったように思えてくる。

(2004.10.11)久万美術館所蔵 井部コレクション展 萬鉄五郎記念美術館  近代日本絵画・珠玉の美をもとめて と題されたこの展覧会は、愛媛県久万高原町出身の実業家、井部栄治氏(1909−1987)のコレクションによる。同コレクションが平成元年久万美術館へ寄贈によって同館がオープンし広く一般に公開された。まず一蒐集家のコレクションが明治初期洋画という我国洋画確立の基礎となった作品から明治・大正そして昭和へと独自の表現の確立へのトピックとなるべく作品を網羅していることにはやはり驚かされる。高橋由一、長谷川利行、黒田清輝、浅井忠・・・萬鉄五郎の「裸体美人(油彩習作)」1911など貴重な作品がそこにはある。村山槐多の熱を帯びた画面も鬼気迫るものがある。 12月12日(日)まで

(2004.10.8)三月に萬鉄五郎記念美術館で一緒に作品を発表したすがわらきよみ(菅原清美)さんからセゾン現代美術館で開催「ART TODAY 2004 斉藤ちさと すがわらきよみ 山本晶」展の案内が届く。すがわらさんはセゾンでは過去にもピックアップされており注目の作家である。滞ることを感じさせない流動感を持つ画面は究極的に支持体と絵具の関係を印象付ける。最近のストロークの方向の変化(水平方向への)について先日話したが、「絵画なんて垂直か水平(運動)でしょう」と軽く返されてしまった。いろいろな意味で見切りのつけかたが気持ちのいい作家である。2004年10月9日〜11月23日まで。セゾン現代美術館:長野県北佐久郡軽井沢町長倉芹ヶ沢2140

(2004.10.6)ゴトウシュウ展 ギャラリー彩園子I,II パネルに和紙を貼って表面を毛羽立てたりマチエールをつくり、そこにアクリルだろうか霧状に絵具をかけて定着させているようだ。以前の作品ほどはっきりした紋様(パターン)は見られず漠として色彩が浮かび上がることで、かえって無限な宇宙の奥行を感じさせている。近くで見ると結構その表面は荒っぽく、上下左右の5cmほどの白塗りされたパネルの余白の汚れが、この作家のアクティブな制作過程をうかがわせる。IIの展示では一部絵画と連動させて床面に白砂の上に茶色い粉(コーヒーらしい)がまかれている。鑑賞者はどうもその上を歩いてもいいようだ。何かこのあたりにもゴトウさんの絵画制作における行為性の重視が鑑賞者の砂に痕跡を残させるという罠と重なりながら空間を共有させようというこだわりが感じられるが・・・・。10月16日まで

(2004.10.3)魅惑の常設展-現代美術の具象と抽象 石神の丘美術館 常設コレクションも充実してきている、具象と抽象にスポットを当てた展覧会。ただあまり具象も抽象も線引きする必要性も意味もそう感じさせない。一見して白黒つく作品には興味がわかない。具象性の中にある抽象性、抽象性の中にある具象性という相矛盾しあう関係、もしくは二重性をどこかに読み取ろうとする。抽象でも具象でもないものとは何か、そんなことを感じさせる作家や作品には気が向く。ちょうど作品の解説で辰野登恵子の作品「July−3−89」について抽象と具象の間にあるものという形容がされていた。10月11日まで



                                     TOPへ