過去のVOICE  2006.4.1-2006.9.30



2006.9.28 田中泯 独舞 18:00〜 鏑八幡神社境内 

2006.9.23 ロダン 創造の秘密 −白と黒の新しい世界− オープニング 岩手県立美術館

2006.9.18 いわて多摩美会展 Vol.17 ギャラリー彩園子
 阿部夏希 銅版画展 ギャラリー彩園子U
kai 作品展2006 ソラ コレクター クラムボン

2006.9.16 大宮政郎 人動説アートの世界 対談 大宮政郎×六岡 康光(石神の丘美術館芸術監督) 石神の丘美術館

2006.9.15  加藤 祐子 展 楽論 U ギャラリー彩園子 16日まで。

2006.9.10 長沼守敬とその時代展 萬鉄五郎記念美術館 本日終了。
高橋克圭 銅版画展 徒花 けやきラウンジ 9月30日まで。
「空間」の作品化 嶋屋征一展・場景シリーズ 1988〜2006〈写真による空間表現〉 湯本美術展示館 本日終了。

2006.9.9 遊佐未森 コンサート 岩手県立美術館グランドギャラリー 岩手県立美術館では美術だけではなく、ミュージアムコンサートにも力を入れている。この美術館にはコンサートや公演に向いた大ホールはないが(150人くらいが入れる多目的なホールはあるが)、意外にももっとも贅沢に空間を占めている、入り口から二階へ導くグランドギャラリー(吹き抜けのゆるやかな階段を持つ)が、コンサートや演劇、パフォーマンスに面白い。今回もこの階段の踊り場をステージに見立て、奥行きがあり開放的なステージをつくった。遊佐さんは、舟越桂さんや保武さんと親交があったことなどにもふれながら親近感を持たせた。トークも自然体で、サウンドも昔のまま。あまり正直聴いたことはありませんでしたが、あらためて聴くと、かなり早い時期からアイリッシュ・ケルト音楽へ傾倒されていたようで、今思い出すとエンヤや当時、ニューエイジミュージックと言われた、民族音楽とポップスが融合したようなサウンドの影響が感じられます。最近リリースした新しい作品も披露したり、彼女自身が影響されたと言っていたケイト・ブッシュをやったり、イタリア歌曲をアンプラグドいやアカペラか・・でやったり、無料なのに十分充実したコンサートでした。遊佐未森さんは常設展も休憩時間に鑑賞されたのでしょうか(後半の開始が結構間があった)、このあと仙台の定禅寺ジャズフェスでの18:30からのステージにこのメンバーで移動されたようでした。

2006.9.5 近代の洋画と版画 フジタさん、いってらっしゃい。留守は我らが!後期展示 秋田県 平野政吉美術館 後期10月22日まで

2006.9.4 小野 英治展 アートステーションギャラリー 11月19日まで
蓮池 純治 展 invitation to the movement Marks アートステーションギャラリー 11月19日まで

2006.9.2 菊池克美写真展−言葉で説明できない純粋写真− ギャラリーla vie 9月2日まで

2006.8.27 「街かど美術館 アート@つちざわ〈土澤〉2006」プレヴュー展 旧岩手銀行(花巻市東和町土澤商店街〉 9月3日(日)まで

2006.8.19 日光写真 ポートレート 千葉 奈穂子 展 けやきラウンジ 

2006.8.6 八重樫理彦 展 諄子美術館 八重樫さんは早池峰神楽に魅せられこの地に移り住んだ。”早池峰神楽が奉納される時、いつでも隅のほうで静かにスケッチしている八重樫さんの姿があります”とは展を企画した及川諄子さんの紹介文の一部だ。もの静かな視線の先にある躍動する神楽の舞いは、決して通りすがりの旅行者の目に映るそれとは異なるものなのだろう。その土地に神楽を求めて移り住むということも相当な決断がいることと思うが、その風土の中で生活し、神楽を共に奉納する思いにまでこの地と身を一つにする彼が、自身が選んだ手段としての”美術”という或る意味特異なフィルターを通して自身にどう還元していくのか。それはまた新たなステージを意味していたのだろう。舞い手と同じ時間を共有し、その瞬間を筆で留める。和紙に速写される舞いの解読ともとれるような描線は、一見「書」のようにも見えたり、具象的な舞い手のフォルムとも見える。今回はじめて作品に接するものは作品のタイトルなどから「早池峰神楽」という具体的な伝統芸能がもとにあることを知らされる。それまで空間に浮遊するエモーショナルな描線や色彩として認識していた受け手の意識に新たな意味が生じる瞬間である。作品の成立とは見る側との間との二重の関係から成り立つのだと感じさせられる。墨や顔料で描かれた”鳥舞”などの作品を見ていると舞い手が画面から飛び出してきそうな印象を受ける。空間に一瞬とも留まらない色彩や墨の濃淡のみによって絵画が成立していたかのように捉えていた見る側の一方的思いに、極めて繊細で強度のある身体的(舞踏的)意味が重ねられいくように思えた。常設展示にも八重樫さんの作品が展示されている。8月12日まで。

2006 第三回公募 利根山光人記念大賞展ビエンナーレ・きたかみ 入賞入選作品展 北上市生涯学習センター 8月15日まで。

2006.8.5 開館5周年記念展 岩手県立美術館コレクション再発見 5つの出会い 岩手県立美術館 9月10日まで。

浅倉 伸 「私は生かされている」ギャラリーla vie 浅倉さんの仕事は、計算した緻密な計画性と計算のなさが混在しているかのようで興味深い。個々の百円ショップで仕入れた?キャンバスに意外にも油という組み合わせで描かれた絵画はユニットとなり大画面を形成し、実にキッシュでいて深遠な世界を表出している。その触覚的な志向と絵画平面のテクスチュアーは、一個一個の作品に付けられたタイトルと符合しながら、または言葉との符合の無意味化を示しながら見る側に不思議な「見ること」「思考すること」に対する距離感を与える。

2006.8.3 小笠原 卓雄 展 Integral.serirs-H インテグラルシリーズも、ここのところ小笠原さんは、建築用足場材と照明との組み合わせによる作品を連続して見せている。ギャラリー彩園子の前回も、岩手県立美術館でのアートフェスタでも。足場材の金属パイプとジョイント金具に足場板というおおよそ美術館やギャラリーに並べるには違和感のありそうな、しかし日常われわれは街中で毎日のように目にする風景の一部を、あえて空間に意識的に置く。見る側はながめるだけでなく足場に実際に乗ってみることもできる。蛍光灯の青白い光が余計に空虚さとともに空間の異化を物語るようだ。以前から小笠原さんの作品は、作品の中に情緒や手の痕跡を残さない特長があるが、このシリーズではレディメイドを用いることでより徹底したコンセプトが感じられる。12日まで。

2006.8.1 青森県立美術館開館記念展 シャガール「アレコ」とアメリカ亡命時代 青森県立美術館 7月13日に開館したばかりの青森県立美術館へ。隣県の美術館の動向はやはり気にかかる。青森県がどういう新しいヴィジョンを示すか、後発になったことをどう利点に出来るのか(東北でも県立美術館が一応の役目を築き終え、機能分化が始まっているところもある中で)、興味深く注視していた。最近の美術館建築は金沢21世紀美術館などにも見られる、器としてのコンセプトがそのまま館の向かう方向性をフォルムとして暗示している場合も少なくない。青木淳氏の基本コンセプトは明らかにこの”地”の持つ意味性を、象徴的に建築として時空を超えて現出させるものと言えよう。そこにどうアートが重ね合わせられるか注目が集まるわけだ。まず第一印象(外観)は、その場所の特殊性(縄文遺跡・三内丸山遺跡に隣接)をそう予備知識としてないものには、どこにでもありそうな公園(実際、総合公園が隣接するようだ)の中に突如立っているなんだかとにかく白い建物という程度のものだ。しかし館の内部に入り、いきなり出迎えてくれる巨大ホールに吊るされた今回の目玉であるシャガールによる舞台絵画「アレコ」四部作を目にしてがぜんその空間(内部)の大きさ(発掘現場のような)に驚かされる。この舞台画は美術館という空間でまとまって展示されたのは世界でも初めてとのこと、新鮮な絵画体験が出来た。こうして内部に入って感じた美術館の印象は、今まで経験した美術館にはない空間性、それは従来の美術を見せるだけの空間以外の指向性を含めているからなのだろう。またはなぜか巨大なスタジオのように映った。シャガールが祖国をナチス侵攻に追われるように逃れ、後ろ髪を引かれながらアメリカに亡命した時期の作品が本展を構成する。1942年にバレエ「アレコ」の背景画を驚くべきスピードで完成させたわけだが。現物を見るなど(ましてや四点並べて)研究者でも出来ないことだったそうだ。実は私自身はシャガールには特段興味を抱かなかったから「アレコ」についても徐々にその存在を知らされた程度だった。マルク・シャガール(1887−1985)は私の中では、どこかロマンチックで夢の中の出来事を描く吟遊詩人のような印象だった。暗闇に浮かぶ色彩と柔らかく重力に逆らうように浮遊する女性や擬人化されたような動物の姿は一層その思いを強めたのだろう。しかし今回シャガールの印象は少し変わってきた。そこに描かれる故郷ヴィテビスクの風景とそこに重ね合わされたシャガール自身の心の比喩としてのモチーフは、一見幻想的に目の前を通り過ぎるようだが、画面に配置されたそれぞれのモチーフに込められた痛いほどの思いに意識が向かったその瞬間、われわれは重い何かを突きつけられる。しかしそうした背景に貫く確かな強さを感じてもなお「色彩」はあくまでも光を闇の中からすくいだし、何か不思議な安堵を同時に与えてくれる。それはシャガール作品に貫かれる普遍的な「愛」なのかもしれない。9月24日(日)まで

青森県立美術館 平成18年度常設展示「青森コンプレックス」 青森県立美術館 シャガール展を観るのに時間を費やしたため、ちょっと短時間で初めての館内を回る。企画展示以上にある意味で常設展示はその館のポリシーを明確に表すと思うので興味深く。いきなり三内丸山遺跡出土品のコーナーを通る。これは博物館の領域ではないかと思いながらも館のデザインからは合っているとも言えるが。そして小野忠弘、棟方志功、阿部合成、小坂圭二と続き、怪獣デザイン原画の成田亨が棟方とともにかなりのスペースを取っている。斎藤義重も一室にインスタレーションを展開。佐野ぬい、村上善男、豊島弘尚はダイジェストという感じで、工藤哲巳も独立して展示されている。奈良美智も忘れてはならない。もちろんこの他の作家の作品もあるが、第一印象としては、展示(作品と作品)の間の間合いが窮屈なためか見る側からすると切り替えが大変だ。また別の角度から言うと青森県が生んだ作家、作品の層の厚さ、エネルギッシュさを示しているのだろうが。美術館建築とそこに収まる作品の関係も重要なのだと展示を見て改めて感じさせられた。いずれゆっくり再度見たい展示だった。

国際芸術センター青森 アーティスト・イン・レジデンス・プログラム2006/春 エフェメラル 遍く、ひとつの時 ACAC 杉浦邦恵、松井茂、サーラ・エクストロン、ホセイン・ヴァラマネシュの四人の作家による。改めてここを訪れて感じるのは建築空間の豊かさか。この豊かな光を抱いた建築に現地で制作された(基本的には)作品がこれほどまで融合していると感じさせられるのは、作品と美術館建築との間の意思疎通がどれだけ血が通っているかということなのかもしれない。8月6日まで。

YOSHITOMO NARA+graf A to Z 吉井酒造煉瓦倉庫 奈良さんの展覧会は結構見ている。前回の弘前も横浜展もだし、横浜トリエンナーレも記憶に新しい。最近の奈良さんは、grafとの共同作業や奈良ファンとのコラボレーション作品など個人の枠を超えた活動でも注目される。青森県立美術館に設置された巨大な作品「青森犬」にしても、もともととりとめもないスケッチかデッサンがどんどん肥大化して、その過程において多くの人の手を介して作品化されていくのだろう。今回の吉井酒造煉瓦倉庫での展開も、奈良さん一人の労力でとうてい出来ない事は想像される。多くの人が奈良さんの指示、プランによってその全体像を具現化させる光景は、どこか体育会系の乗りに思えてしまう。奈良さんのナイーブな物腰と一致団結して一つの目標に向かって突き進む共同作業とにはどこかギャップを感じなくもないが、そこに出現したまるで建築空間の中に佇むもう一つの街は、そうした思いも忘れさせるほど、しっくりと呼吸をしているのだ。今回は一点一点の作品よりも余計にキッチュな空間の作り方に関心が向かう。絵画としての平面イメージが最初にあるのかと思うが、明らかに置かれる空間をも絵画の延長としてもはや廃材を敷き詰めた床のきしみまでも作品として同化している。それにしてもとどまることのない拡張されていく世界は、他者との領域の境を強く意識させられるようでもある。そしてこの共有感こそ奈良さん自身が一番感じていることなのかもしれない。 

2006.7.23 湯本美術展示館 

2006.7.22 ISHIGAMI ART WALK 2006 いわての現代美術と出会う、夏。 石神の丘美術館  夏休みに入った?この時期、岩手の若手作家によるアイディアに富んだ取り組みの紹介は、タイムリーだ。いつもより観光客や旅行者も多いだろうし、子供達にもいい鑑賞の機会と思える。ワンフロアーの会場は、仕切りなしで6人の作品が見渡せる。天井が意外に高く、展示は難しいのかと想像する。壁面長と天井高の関係からも空間取りがグループ展になると仕切るかどうかで変わってこよう。そう大きな展開も出来づらい空間の中でそれぞれの特長をコンパクトに提示している。今回は加えて野外での各展開を見られるのが興味深かった。通常の野外展示は石や鉄などの恒久的な素材を用いた彫刻的?でモニュメンタルなものを見慣れているので、インスタレーション作品を含めた展示は意外に新鮮だ。今回の出品者が全員、インスタレーションを主にした活動をしているわけではないが、「インスタレーション」といった言葉が一般的に使われだした70年代後半から80年代にかけての動向とも違った、自然な感覚が平面とか立体とかいう規定を軽く飛び越えたことばを身につけているように思えた。8月27日まで。

2006.7.9 村上善男展 −1950年代を中心に 冷たい計算から熱い混沌へ・・・ 石神の丘美術館
藤村勝美展 アートステーションギャラリー 

2006.7.8 第32回盛岡彫刻シンポジウム テーマ「層 〜つみかさねたもの〜」 Gallery彩園子T・U 

2006.6.29〜7.1 金沢市・ゲント市姉妹都市提携35周年記念 人間は自由なんだから−ゲント現代美術館コレクションより 金沢21世紀美術館
コレクション展T 金沢21世紀美術館 金沢市の中心部に位置する未来的な美術館。特徴的な円形の建物はどこからも入ることが出来る、美術館と言う敷居の高さは感じられない。だいたいガラス張りの構造は外からも内部の動向が丸見えなのである。ただ内部は箱状の構造を取らざる得ないのか、それほど広さは感じない。とにかくフラットな低床で地上高を抑えた建築は内部と外部の境界を曖昧にし、そのことは美術館が発信する感性や情報を均一に、訪れようとする人にも、素通りする人にも投げかけようとする姿勢が建築のコンセプトに読み取れよう。内部はやや迷路のような複雑さもあり、その中にいくつもの常設コレクションやインスタレーションが隠されている。中でも中庭に突如存在するいかにも水深のありそうな、覗き込むと足元がふるえるようなプールの仕組みは、後にプールの底に通じる空間に誘導されることで種が明かされる。建築に組み込まれたこの大げさなセッティングに、謎を知るとそれまでの疑問を忘れてばかげた感想も持ってしまうのだが、館長が”にせものではない本物を大真面目に見せることで、特に子ども達は感性を刺激され、美術館に興味を持ってくれる”といった内容のお話をされたのも印象的であった。 8月31日まで。

常設展示 石川県立美術館 金沢21世紀美術館の道路を挟んで向かい側に位置するこちらは一世代前の建築という雰囲気。付近には博物館、美術館も他にもあり、集中して金沢の歴史、工芸、美術に触れられる。県立美術館は暗い玄関の面持ちから入館者は自分以外いないかと思いきや、結構鑑賞者がいたことも意外であった。しかしそれは金沢の工芸の歴史、美術の層の厚さが表れた常設展示を見て頷けるものをすぐに感じた。特に九谷焼の展示に目が行った。

生誕120年 パリを魅了した異邦人 藤田嗣治展 京都国立近代美術館 東京国立近代美術館で見ることのできなかった同展を京都で。

藤井永観文庫の優品展−生涯を古美術蒐集に捧げた聖華− 細見美術館

ダ・ドリアデでに展示されている拙作を見に青山へ。店舗内には数名のアーティストの作品がインテリアに溶け込むように掛けられている。その展示センスは作者にとっては思いがけない効果を生み、ギャラリーや美術館にない響き合いが楽しめる。7月22日(予定)まで


2006.6.24 アート・シネマ上映会 マーサ・グラハムの生涯 岩手県立美術館

2006.6.23 北郷 悟展−テラコッタと銅版画− MORIOKA第一画廊

2006.6.15 宋 思霖 銅版画展 ギャラリー彩園子
千葉勉 絵画館 旧石井県令邸

2006.6.10 アートシネマ上映会 ビョーク 岩手県立美術館

2006.6.8 うちわ展 ギャラリー彩園子

2006.6.6 森と風の学校

2006.6.4 宇田義久展 諄子美術館 water lineと題された作品からはみずみずしい光の反射と、色彩の輝きが新鮮な驚きとして目に飛び込んできた。宇田さんはパネルに綿布だろうかを張る際に幾重にもギャザーをつけ、アクリル絵の具で画面を染める中でギャザーに色彩が留まるのをうまく作品にしてきた。今回の作品もそうした仕事の延長線上にあるのだろうが、より自然な流体を思わせるような表面のたたずみとギャザーに呼応するかのように糸を平行線状に無数に貼り付け彩色することで絵の具の染み込みにより予測不能な変化を与えているように思われた。そして絵画の表面にはニスだろうか、透明なコーティングが施され、以前の作品に見られた布の質感を一旦かき消し、色彩とそのグラデーションのかかった水面を思わせる揺らぎに意識を向かわせることに成功している。 6月24日まで

2006.6.3 
村上善男展 −1950年代を中心に 冷たい計算から熱い混沌へ・・・  石神の丘美術館  先月急逝された故村上善男氏の1950年代から60年代と言う美術家としての原点を氏が4年間(57年から61年)過ごした岩手町、そして最初の赴任地花巻(54年)、68年からの仙台時代、82年からの弘前時代そして盛岡に帰る2004年への流れの中で浮かび上がらせる。何度も作品は目にしていながら、今回特に感じたのは、氏の作品になぜか”刷り”への眼差しを見る気がすることだった。唐突な話なのだが、最初期のデッサンや油絵の力強い線や置かれた絵具からは描画というイメージよりもより絵具やインクの物質的な強さを感ぜずにはいられない。それはまるでキャンバスに刷り落とされた絵具の塊のように見えるのだ。注射針のシリーズは即物的な強烈なインパクトを与えながらも、個のイメージを集積させることで新たなヴィジョンを得ている。それもどこか針の一本一本が文字のような言葉のような刷り込められた意味の重なりのようにも見えてくる。記号や識別文字を浮かび上がらせる気象シリーズや貨車のシリーズを経て、古文書を画面に貼り付けたシリーズに移行するわけだが、よく表面を見ると古文書が表裏逆に貼り付けられていることも刷りを通して現実(真実)の危うさと反転した世界からわれわれを凝視する姿が感じられる。氏は目に見えるものをストレートに見せるだけではなく、どこか印刷物を完成させるような冷めた視線をキャンバスに集めていた気がしてならない。7月9日まで。

20世紀陶芸界の鬼才 加守田章二展 岩手県立美術館 
 
2006.5.28 千葉勉 絵画館 旧石井県令邸 盛岡市に現存する最も古い洋風建築が会場となっている。もともとは県令(知事)邸。補修されて一般に公開されるようになってからまだ足を踏み入れたことがなかった。入り口で靴を脱ぎスリッパに履き替え会場内に入ると、そこはアンティークなにおいが微かにする。明治以降に建てられた洋風建築として堂々とした意匠が隅々に感じられる。
千葉さんの今回の個展は、絵画館という展名のごとく旧石井県令邸を全館使いこれまでの仕事を振り返るかのような規模であった。一階から始まり、二階へと過去から現在へ向かい、三階?の屋根裏部屋には氏のアトリエを再現したかのように画家の日常がのぞける。
 作品は70年代から現在まで50点以上だったかと思うが、ほとんど一度拝見したかと記憶が蘇るものばかりで、結構観ているものだ。70年代後半から80年代は油絵が主で、カーニバルの後の余韻を心象風景として描いた作品や、人物が配されているものが多いのも特徴か。シュールと言えば言える作品で年代的にも千葉さんと自分は制作を始めた時期も近いのであの時代の気分はよくわかる。その後、静物画を手掛け、風景も数多く描いている。近年は身近な植物の水彩画など作風は変わってきた。ワイエスの水彩技法を思わせる、細部に見られるドライブラッシュのような細密描法は、描かれる風景の持つ静けさを緊張感を持って伝えている。フラットに塗られた余白の扱いはどこか写実でありながら非現実的な世界へと誘う。そのあたりはシュールとも感じる瞬間もある。画家のアトリエを再現したような屋根裏の空間も面白く、千葉さんの作品ばかりでなく思考の過程も感じることのできる展覧会だった。旧石井県令邸に配された絵画を巡っているとどこか西洋の教会か屋敷に迷い込んだ錯覚を覚えた。窓の外はいつもの盛岡の街なのに。
6月18日まで。

2006.5.21 村上善男 お別れ会 盛岡 平安閣 午後一時からとのこと最初、家から3分もかからぬ会場に着いて1階のロビーで受付でいただいたカタログに目を通していたが、三階にエレベーターで着くとすごい人ではないか(400人とも聞いた)。もう会場後ろの三面のスクリーンにはお元気だった頃の(というかいかにも頑丈そうな氏のイメージしか思い出せないのだが)氏のインタービュー番組や若かりし日のスナップがシャンソンの流れの中に現れては消えていた。集まっている人たちは岩手ばかりでなく県外からとりわけ青森から駆けつけた人たち、宮城からの方が多いのだろうか、知った顔より知らない方が大勢。ここにも氏の広範な交友、そして影響力を垣間見た。最後まで自身の美学を貫いて逝った作家は、病という難問にも周囲に弱音をもらしたり屈することなく、奥様のお言葉にも象徴されるようにダンディズムを貫き通したと言えよう。詩人であり孤高の美術家だった氏が盛岡に帰り、最後に眼差しを投げかけたものは何だったのか。

2006.5.20 映画「ダ・ヴィンチ・コード」を全国に先がけて0時から盛岡フォーラム1にて観る。
三上 晶子 展 ギャラリー彩園子T

2006.5.14 あーと@つちざわ 現地説明会は13、14日の両日。昨日は天気も悪かったが、今日はまずは好天に恵まれ、資料と話だけでもと自転車で向かう。距離感を知る上でもまた、自分の足で辿り着くことで見えないものも見えてくる気がする。しかし往復は距離がある(約80キロ)。1時から説明とのこと、それには間に合おうと順調に美術館着。まずは昼食にまつば食堂に。食堂という響きもいい。すると盛岡のla vieさん御一行とばったり。彼らは午前から町内を周っていたそうで。まだ皆さんばらばらに動いているようだ。美術館に戻ると案の定、説明会は二時半に変更とのこと。こっちは自転車なんだから帰れなくなるって・・。やはり盛岡から来た知人(初参加)に会い、時間まで町内を案内。説明会は30,40人近かった。新たな参加者も半分以上で皆さん真剣。スライドショウによる候補物件説明は、一度参加した者にはだいたい想像できるが、初参加の人には場所との一致が難しいだろうと思われる。まずは希望のエントリーなようだが、今年は簡単な提出コンセプトによって調整したいとの事。一箇所に集中する可能性も高そう。昨年一回やってかなり状態のいい場所もあるからだと思う。

2006.5.13 工藤 彩 展 ギャラリー彩園子T、檜山 望美 銅版画展 ギャラリー彩園子U ともに初々しい感性を感じる作品展。会期を同じくしての展ながら建物の異なる二会場は対照的な取り組みを見せていた。工藤さんのパネルに和紙?を貼り付けアクリルで彩色し、途中に糸を無数に貼り付けては和紙を貼り、彩色したと思われる作品は抽象的なようでどこか具象的にも見える。それは糸によるマチエールが植物的なものや地形を眺めた様にも見えるせいであろうか。マチエールをコラージュするという特段変わった技法でもないが、糸の持つ流れるような流動感が筆の流れ以上に効果を与える。彩色法も顔料による日本画的なつやのなさが質感とも合っている。また檜山さんの銅版画展は工藤さんとは対照的に構築的な画面を指向しているように見える。それは意識的にというより個々の波長の違いのように思える。幾何学的な紋様を白黒だけのメゾチントで表現している。黒の持つ魅力にひかれているのだろう。闇の中で微かに光を宿す単純化された幾何形態は黒の美しさによって光がそこに集まる。版画技法の習得は、見た目以上に困難なものだと思うが、技法的な部分が独り歩きしないように一番作者が考えているのだと思う。 13日まで

2006.5.10 村上善男氏の訃報が駆け巡った。亡くなられたのは今月四日。ごく近親者で密葬したと聞く。氏のご自宅は我が家から数百メートルしか離れておらず、ほぼ毎日通る道から気に掛けていた。目印である風力計のあるお部屋に灯りがついていると安心したものだった。氏とは親ほど歳も離れているため、若いときはとても作品のことでお話しするなど出来ない方だった。少しは美術のことを学んだ頃には氏は仙台、弘前と居を変えていた。盛岡でお目に掛けることはまれであったが我が家の前を散歩されていたこともたまにあった。遠い昔の光景として思い出される。氏の言葉で印象的だったことは「作品の数十年後を考えて作品をつくれ」といった意味のことと作品を保存することの重要性だった。昨年岡本太郎記念美術館で開催され全国数箇所巡回した「北に澄む」展での氏の作品の保存状態の良さには本当に驚いた。それでも数点変形をきたしている作品もあったことが余計に氏の残した言葉に重要性を覚える。作品に対する厳しさを持ち続けた氏の姿勢はいつまでもわれわれに影響を与えることと思う。東北の風土に向けられた透徹した視線は、美術とフォークロアの関係を現代の視座によって指し示したと言えよう。ご冥福をお祈り申し上げます。
2006.5.6 アート・シネマ上映会 「悲恋」 岩手県立美術館

第4回 つくる展 岩手大学美術科在校生、卒業生有志展 岩手県民会館 岩手大学の学生はよく外部で作品の発表を在学時から行う。それは半分伝統なのだろうが、最近は在学時に画廊で個展を開くことも珍しくないし、このように県民会館の一階、地階の全フロアーを使って発表したりする。その積極性はとてもいいことであり、発表欲は絶対必要だと思う。ただ苦言を呈すれば、自分(自身の作品を)を外に向けることは意欲的なのに、外から吸収したり見ると言う事にはそれほど積極性が感じられない気がする点が気にかかる。それは全国的なことでありI大がわるいわけではない。作品を見ていると多少独りよがりな点が気にかかる。いいものも感じるのだが、それ以上のいい意味のくどさがないというか(全般にあっさりしている印象)、他人のやっている仕事にもっと貪欲に興味を持ち、それ以外のまたはそれ以上のものを示す強かさがほしい気がするのは私だけだろうか。こうした場数を踏んで成長するんだと思うので、刺激しあって欲しいと思う。いい作品もありましたよ。7日まで(最終日17:00まで)

2006.5.3 再考・萬鉄五郎 展 萬鉄五郎記念美術館 これはなかなかいい企画なので、もう一度ゆっくり観に行こう。今日は萬鉄五郎祭に合わせて自転車で東和町に向かったが、途中峠のない456号を走っているつもりが大迫に向かう例の396号の峠の手前に出てしまい、しかたなく13号の峠超えして東和町に入った。帰りは456号線を進みどこで間違ったのか辿ったのだが、かなり手前ですでに間違えたようだ。道は平坦なのに向かい風が応えて結局行きよりも時間がかかってしまった。なさけない。。

2006.4.29 小野嵜拓哉 展 湯本美術展示館 小野嵜さんの平面の作品はリトグラフ、エッチングから油彩までバリエーションがある。今回は湯本美術展示館の二室を使い、本人が言う「一般の人にも違う取り組みを観てもらい楽しんでもらえる・・内容」という作家側の姿勢がうかがえる。それはコンパクトながら伝わる。ネガ・ポジ反転によるカラーリトに緻密なモノトーンのエッチング小品にグラデーションを施した多色エッチング、大判のエッチング、そして指で描いた?油彩平面とその変化を見せる。緻密に原始的な象形文字のような不思議な線を集積させたエッチングは、そのままにフラットに黄色等の単色を指につけ描いた線がうごめく少し前のキャンバス平面に繋がる気がする。最近興味が向かうというエモーショナルな側面を画面に残す、同手法による油彩平面は、エッチングでは見られなかった画面上の何らかの破綻を示すようで、それが画面にもう一つの別の意味を与えようとしている。それが何なのか、そして意味を獲得するのか見ていきたく思わせる。5月7日まで(月、火休廊)。

第五回[40cmの玉手箱]展 ギャラリー彩園子T、U この自主企画展も長く続いている。40cmサイズという規定以外は自由らしく平面が多いが半立体や立体まで様々。どこの画廊でもギャラリーが声かけて小品展はよくやるが、これは自分たちで同じ条件で作品並べ切磋琢磨する姿勢が見えて、これはこれでいいと思う。学生から年季の入った作家まで出品者層も幅があるが、そうした年代を超えた集合はやはりそこに吸引力がなければ成さないことであり、それは会場となっている彩園子の目には見えない影響力なのかもしれない。毎年のことながらいい作品がさりげなくあります。5月6日まで。

2006.4.18 いわての風景画part1 岩手町立石神の丘美術館 いわての風景画というテーマは意外に新鮮な響きがある。いわては洋画家の人口も多い。それは豊かな自然環境からきているのだろう。沿岸には変化にとんだリアス海岸が格好の写生ポイントを与えてくれる。内陸部には四季の変化に富む山あり川ありで絵画の題材に事欠かない。欠けているとすれば都市空間や工業地帯の情景だろうか。だから”いわての風景画”という響きはぴったりなのだが、展覧会のテーマとしてはあるようでそうなかった気がする。今回はパート1とのこと沢口健 佐藤勝馬 藤沼源三 橋本正 海野経 各氏の作品が並ぶ。一概に風景画といっても作者の筆致や色使いはそれぞれの人柄を表しているかのように個性的だ。それぞれの作家がいわての風景を通して何を見て残そうとしたのか改めて検証する場が持たれたことも意義深い。会場最後の沢口健氏の岩手山を中心にした水彩や油絵は、岩手に暮らすものにとっての岩手山という存在の意味やイメージするものを氏の表現をきっかけに考えさせられるようでもあった。5月21日まで。

2006.4.16 ジャン・コクトー展コンサート 白い音楽 白石 准 ピアノ 重杉 彰 トーク 岩手県立美術館 現在開催中のジャン・コクトーに合わせて、展示会場でのミュージアム・コンサート。午後1時と3時の二回公演。曲はエリック・サティの作品より。ジャン・コクトーは詩や文学を中心に活躍した人物として有名だが、演劇から美術、音楽、ジュエリーなど分野を超えて広く当時の一線の人たちとの交流が見られ、またどの分野においても作品を数多く手がけている。コクトーのピアノを演奏するポートレートも展示されていたが、サティとコクトーと言うと1917年の舞台「パラード」を思い出す人も多いだろう。舞台装置ピカソに曲サティ、出演デュアギレフのロシア・バレエ団、台本ジャン・コクトー。しかしやっと脚光を浴びるまでには音楽家として不遇な時代を過ごしてきたサティは、まだ当時ロマン派が主流の時代に印象主義的な作品を生み出し、印象主義が注目された頃には違う方向にいたという。コンサートのタイトルである白い音楽とはサティの音楽をよく言い表している。たすこともひくこともしない音が佇む。白石氏の演奏は、実に音と音との間にある(何もない)ものを大切にしているように感じる。それは何もない音こそサティの求める最も重要な音とでも言おうか。ジムノペディは日本でもサティを最も印象付ける作品だが、氏によると最もサティらしくない曲かもしれないと。そのことは安易にサティを解釈することへの反語なのか。絶対面積における音の数がサティの場合、圧倒的に少ないのだが、そのことが余計に一音一音に集中させ、沈黙がもつ音としての”無”の意味に意識を向かわせられることを生の演奏はより気付かせてくれるようであった。

2006.4.12 ジャン・コクトー展 サヴァリン・コレクション 岩手県立美術館 仕事で再び訪れる。今回はあまり見られないかと思ったが、ディテールをまた違った角度で見る事が出来た。ジャン・コクトーについてこれだけ美術作品を中心に紹介されたことは、経験がなかったのでまず255点という出品数に驚かされる。しかも世界最大の個人コレクションを主にした展覧会だというから。コクトーは1889年パリ近郊の裕福な家庭に生まれる。世紀末から、20世紀初頭ベルエポック(良き時代)の空気を一身に浴びてその感性を開花させていく。コクトーは主に詩人・文学者としての側面から文学的に紹介されてきた傾向があろうか。しかし彼の絵画作品はじめ写真、陶芸、ジュエリー、タピストリー・・・を見ていると全てがもう一つの詩(言葉)の一部であることに気付かされる。それは一点一点というより総体としての佇まいとでも言おうか。彼のデッサンや油絵を見ていると如実にピカソやエゴンシーレ、モディリアーニ、ビュッフェ・・・などの作風を思い起こさせる。それが非常にストレートに隠さずにあたかも氏の交友関係の広さを表すかのように目まぐるしく一つにとどまることなく展開する。そこにも絵画が彼にとって文章を綴る行為と同列な日常の断片(ポエジー)に過ぎないというスタンスを感じる。印象的なのは彼のデッサンだろうか。その線の持つデカダンスとシュールが交錯するような魅力は、そのまま彼のよくデッサンにも登場する自身の”手”の美しいラインと重なる。そしてこの展覧会の三分の一を占める(第一章・コクトーと友人たち、第二章・ヴィジュアル・ワークス、第三章・演劇・映画による展覧会構成)”コクトーと友人たち”の章を見るにも、コクトーに対する外部の目がすでに共通したコクトー像を作り上げていることに、彼のカリスマ性が見て取れよう。ウォーホールがコクトーの肖像画を描いた油絵も出品されていたが、やがてウォーホールが自らを売り出す手法を見るように、取り巻きの人々がコクトー像を不動のものにしていった時代の空気が垣間見られる。コクトーの演劇・映画についてはまた別の機会に触れるとして。 5月21日まで。会期中アート・シネマやコンサートと多彩なスケジュール。

2006.4.9 aiina いわて県民情報交流センター グランドオープン(5/8)前ながら設置されている10人のアート作品を見に。
安田、奈良、平田、舟越桂、丁、吉田重信、本田、百瀬、フロリアン・クラール、ピオトル・コヴァルスキーの各作品は十分に独立しても鑑賞できるし、建築空間との融合を感じさせる。これなら自然とアートにも興味が持てることだろう。ガラスに入っているものや手の届かないものはいいが、かなり無防備に見えるものもあり、作家側も鑑賞者の積極的な作品への関わりを考えているのかとも思う。ステンレスやプラスチックはともかく桂さんの木彫などは柵が気になってしまうが・・。まあパブリックアートはそういった境界線なく置いて意味を持つので、作品保護と環境としての作品のあり方にはいろいろ考えさせられる。

2006.4.8 ジャン・コクトー展 サヴァリン・コレクション オープニング 岩手県立美術館

筆塚稔尚 展 オープニング 諄子美術館  筆塚さんの作品については盛岡クリスタル画廊での発表で見ていたが、直接作家にお会いできたのは初めて。画面上の要素を切り詰めたその版画は、表面のざらざらしたマチエールとともに印象に残っていた。東洋的という言葉は、一番言い当てていないのかもしれないが、木版を主とした版に対する傾斜は、一見思想的(東洋的)背景に向かわせる。実際、そこには”無”に対する意識と、存在があって初めて”無”(我)を意識するという二律背反の論理をそこに読む。木版は油性インクによってプレス機で刷り上げるという。多少そのことは意外であった。東洋的と言うなら紙に絵具がしみ込み明瞭なエッジを求めない方向に向かいそうなのだが、油性インクは絵具の物質的積み上げを画面上で見せる。それは洋画的絵画の構築方法である。お話を伺い印象的だったのは、版画という一般的イメージ(計画的に製版し、刷り)とは違って、版を使って絵画をつくっているという感覚だ。したがって下絵を用いず、考えながら版をつくり、刷りながら修正を加えるという。版画の”特殊性”をこの場合、無効にさせる”扉”を感じた。5月13日まで。

三浦栄美展 クラムボン


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