過去のVOICE 2003.9.22〜2004.3.31


(2004.3.31)夕刻から雪が降ったりと、春と冬が同居しているような一日。作品のための写真を撮ろうと思ったが、まだ考えている場所には雪が多く、四月に入ってからとする。

(2004.3.29)小野寺 倫夫 絵画展 エスポワールいわて1F展示室 小学校時代の恩師の初個展というから、自分はやり過ぎか。会場は先生の何十年分の仕事から近作を中心にピックアップ。My Landscapeというシリーズはブルー一色の画面の彼方に光が差し込み水平線に視線は向かう。具象なのだろうが簡潔な構成はきわめて抽象的で、要素が少ない作品ほど個人的には興味をもった。これからの展開がさらに楽しみに思わせる先生のお若さ。

レオーネ・コンティニ・ボナコッシ展 ギャラリーla vie フィレンツェの若手作家による展覧会のオープニング。DMで拝見していた通り、無数の人のシルエットが流暢にというより不器用に絵具でキャンバスに描かれている。手法的にはあらかじめ用意した下地を外側から白や他の色でかき消しながら結果的に群集ともとれる無数の人のシルエットを浮かび上がらせる。そのためか人のシルエットは二次的に生まれてくるように思う。印象的には洞窟壁画のようなプリミティブさを想起させながら、どこか記号的にも感じる。原始からの美術の歴史を無意識にも土台にさせられるのかもしれない。

(2004.3.28)橋場あや 「ペンの仕事」展 盛岡市民文化ホール 橋場あやさんのペン画をメインにした大規模な個展である。橋場さんのエネルギーにはいつも驚かされるが、ペン画だけの作品でこれだけの展開ができることにはまずもって敬服する。個人的にペン一本という極限的に条件を削いだ表現は興味があったが、線描だけでも十分に魅力的だ。まるで街を上空から見下ろしたかのようにも見える作品群。しかしどこか人々の営みを温もりとして感じさせながら深遠なる宇宙の彼方にレールが続くかに想わせる。遠く遮断機が下がり、信号機の音だけが遠のいていく。橋場さんが向かう、その先にあるものは何なのだろうか。会場で教え子さんだろうか、一人ぶつくさと感想が聞こえた。「鳩さんがいていいですね」「道の感じがいいですね」・・・一点一点向き合っては自分の感じた一番いい部分を声を上げて表すその姿にはっとさせられ感動を覚えた。言葉を発せられる力に。

(2004.3.27)明日までの会期の舟越桂展 岩手県立美術館 東京展入れて四回目になる。気になる作品を中心にじっくりと。「遅い振り子」(1992)を見ていると作品から鑿の音が聞こえる気がする。荒く処理された胴体の表面を見ているとそれだけで美しい。他の作品と比べ着色が少ないことで、木彫であることに意識がもどる。それにしてもマテリアルをかき消すくらい彩色する作品は相当な覚悟がないと出来ないことだと思う。それをやってしまうことも素材に加担し過ぎぬ、身振りの軽さなのだ。そして決して視線が合うことのないその眼差しは常に遠くを見つめ、つづきを予感させる。

(2004.3.24)キャンバスからの視線ー洋画による人物表現− 秋田市立千秋美術館 館所蔵の作品から人物画にテーマをしぼり展示。県出身作家および秋田県にゆかりの作家の作品によるのか。ゆかりの作家といっても明治から現代までその時代は幅がある。当然”人物”に対する解釈の仕方も表現方法も違ってくる。しかし時代背景の異なる各作家の表出の仕方より人物表現の意義自体に興味が向かう。
カウンターが2000を越えました。今後とも宜しくお願いします。

(2004.3.21)季節の変化は目まぐるしい。萬鉄五郎記念美術館への道も一週間前は残っていた雪もほとんど消えた。入れ替わりに花粉の季節。そうひどくはないのだが鼻がぐずぐずし出した。気まぐれに美術館には顔を出しますのでよろしくお願いします。東和I.C.もできて高速ならかなりアクセスがよくなりました。(東北道花巻JCTより釜石道へ)

(2004.3.16)VOCA展2004「現代美術の展望−新しい平面の作家たち」上野の森美術館 第11回のVOCA展は全国のキュレーター、ジャーナリスト、研究者などから推薦された36作家による。久々にVOCAを観た気がするが、VOCAに期待するところは大きいだけにちょっと平凡な印象を持った。たしかにレヴェルが高く、注目に値する作家も多数いるが、VOCAも11回目となり、展のヴィジョンが新しさに向かうよりも現代絵画の定型になりつつある気がしてならない。つまりVOCAにあっても既視感がつきまとう。そんな中、阿部幸子氏の触れる絵画(横長の画面に美しい赤に着色された油粘土が盛られ、鑑賞者が自由に触り、変化を加えることが可能な作品)は、絵画の、または展覧会のシステム自体を問う興味深い仕事に思えた。というかなぜかそこだけほっとさせられた。氏の「日本でしか成立しない作品だ」という意味の説明が、海外でのレジデンス経験から説得力をもって伝わる気がする。

第23回損保ジャパン美術財団選抜奨励展 損保ジャパン東郷青児美術館 内覧会及び表彰式に出品者として参加。損保ジャパン奨励展は初めてだが、今回は自作の展示の具合をチェックする意味で初日に訪れた。自作は入口から入ってすぐの一室に、比較的モノトーンまたは単色の作品の中に落ち着いて展示されていた。それにしても全体的な印象は、公募展での各損保ジャパン奨励賞受賞作品が大半を占めるためか、あるまとまりを感じる。しかしその感覚はある種、権威主義に見えなくもない。そこにはコンクール、公募展制度の内包する共通の課題が垣間見られ、公募展には縁のない私自身にとっては、久々にそうした感覚を覚えた。個人的にはVOCAの様に全国の推薦委員からの推薦作品と各公募展受賞作品がどう絡み合うかそのことが気にかかるのだが、その糸口はそう簡単には見えてこないのか。田中宏治氏のソラリゼーションの様な人物作品と岩永てるみ氏の植物園の温室で下から眺めたような作品、満江英典氏の浮遊する漠としたイメージが特に印象的である。

六本木クロッシング:日本美術の新しい展開2004 森美術館 六本木ヒルズも久々である。オープン時にはヒルズは数度訪れたがその後、行く機会がなかった。余計なところを見ずに森美術館直行であったが、その広さと作品数の多さから予定時間をオーバーしてしまった。正直、展望台観覧と組のチケットで美術館に足を踏み入れ、見せられた人たちにはかなりとっつきにくい作品だと思うが、そのあたりがすでに戦略なのだ。個人的には横浜トリエンナーレをみたときのようなカタログ的感覚がこれはこれで楽しめる。そこにあるのは日本の現代美術を世界スタンダードに高めるねらいがあるのか。展の印象は国際展を思わせさえする。実にハイレヴェルで、世界進出している若い作家も数多く含まれるが、この日本美術の急激な変化(メディアを中心にそう思わされる)は、少々不安も覚えることはたしかだ。出品作家では小谷元彦や村瀬恭子、ムラカミ的意味で会田誠などが気にかかる。いろいろ意見はあるとは思うが現代の日本美術の状況を俯瞰できる機会として興味が持てた。+クサマトリックスで目一杯。

梅田恭子 ツブノヒトツヒトツ ギャラリー1/f タイミングよく展初日に飛び込む。銅版画集「ツブノヒトツヒトツ」全版画が展示され、オリジナル版画が添付された版画芸術122号が合わせて販売されていた。思わず作品「漂」が添付の一冊を選び購入。どこか自作と響きあう部分を勝手に感じて。
今回の損保ジャパンへの出品作は昨年1/fでの個展出品作品の中の一点。

コレクション展 工房”親” オーナーには損保ジャパン選抜奨励展オープニングにも足を運んでいただいた。ありがとうございます。ギャラリーには自作小品も飾られていた。JR恵比寿駅でいつもと違った出口から出たため、行きなれたギャラリーなのに迷ってしまった。地下鉄広尾駅からが分かりやすいです。

(2004.3.13)昨日は萬鉄五郎記念美術館での「長谷川 誠・菅原 清美 展」オープニングセレモニーおよびギャラリートークにおおぜいの方々にお越しいただき感謝いたします。半分以上は作家の方々、それに鉄人会の皆様、盛岡や花巻、一関方面、遠くは仙台からとお忙しい中、本当にありがとうございました。本日から会期は4月18日(日)までとなります。

(2004.3.11)展示作業が終了。図面上はわかっていたつもりでも一、二階への変化とアプローチをある程度系統立てて、見やすく展示することは慣れが必要だ。どう見えるかに今はゆだねるしかない。明日はオープニングセレモニーがあります。お近くの方?はどうぞお越しください。展は4月18日までの会期(月は休館)となっております。

(2004.3.10)萬鉄五郎記念美術館での作品展示作業。おおまかな作品の位置決めで終わった。いろいろな意味で十分な準備ができず、その場で考えながらの作業。思った以上に難航している。雪は相当解けた。

(2004.3.6)「村井俊二・溝口昭彦 展」萬鉄五郎記念美術館 再び来週からの下見を兼ねて。それにしてもここ数日の真冬のような天候には驚いた。この冬一番寒く、降雪量も昨夜から34cm、積雪量は50cmはあるか。吹きだまりによってはそれ以上に感じる。路面も全面圧雪。季節的には3月なのに今年の少雪、暖冬を撤回するかの雪と寒さ。二三日は寒さが居座ったとしてもまた急激に解けるのかもしれない。山の今年の少雪もこれでバランスをとったのかもしれない。
下見は作品配置の確認。実は損保ジャパンへの出品と重なり萬での作品が少々不安だった。難しい展示になりそうだが、自分でも見たことのない展示をと思う。12日のオープニングセレモニーまでには今回だけは?雪がとけて欲しい。

(2004.3.3)「空間」の作品化 嶋屋征一 退職記念自選展 盛岡市民文化ホール 退職記念とは時の流れを感ぜずにいられない。嶋屋さんには岩手芸術祭の環境芸術部門、滝沢アートフィールド等で本当にお世話になった。振り返るに自分自身が現代美術に関心を持った70年代後半、すでに銀座の村松画廊で個展発表を重ね(69,71,74,76,79,82,84)、作品スタイルが確立していた。「スペース・白=緊密空間」という白一色のレリーフ作品や平面作品「形相」から、ちょうど私も芸術祭環境芸術部門に出品し始めたころのミラーを用いた大掛かりな空間を取り入れた立体作品、より世界全体の表層を取り込んだ半球ミラーを使用した作品、やがて半球ミラーに撮影する自身も写し込む写真作品、身体内空間をマーブリングの表出と重ねあわせた「Image−Sound」のシリーズ、そして新作も展示された「異空間」のシリーズと一作家の変遷が40年を越える時間を経て凝縮して迫る。マリオスの4Fにある広々した空間をしても作品のほんの一部であることが窺える。一貫して「空間」という切り口で空間の視覚化を企てる作品群は、激動の時代の中で微動だにせず無限の展開を見せ続ける。あたかも鏡面に無限の連鎖を見せるかのごとく。
 昨日降った雪と真冬日のような寒さにすっかり季節は逆もどり。

(2004.2.29)2月も今日でおわり。なんだか一日得した気分。それにしても今年の冬は冬らしくない。3月になれば暖かくなっていっても普通だろうが、2月にすでに冬が終わった感じだ。今日なども雪ではない雨が平気に降っている。外で久々に大工仕事(本業ではないですよ。近所の人はそっち関係の仕事してる人と思っているみたい)をするが、一ヶ月、いや二ヶ月季節が違う感じだ。何より雪が市街地ではほとんど消えた。土もやわらかく簡単に掘り起こせる。山の雪どけも確実に早まっている。四月いっぱいはまず滑れる県内の主なスキー場もおそらく今年は4月上旬がいいとこかもしれない。北国に住んでいると雪が消える時期がなぜか気にかかる。市内は雪どけも早いが、毎日通う滝沢では雪が消える日を、結構毎年注意して見ている。桜の開花もだいぶ遅いが、桜と同居して4月の30日まで残っていることもめずらしくない。(これは某体育館の軒下にかなり最後まで残るので毎日変化を見たりする)しかし今年はとてももちそうにない。来週は寒が戻ると聞くが。

(2004.2.28)舟越 桂 全版画展 1987−2002 川徳7Fダイヤモンドホール このような展覧会が市内のデパートで行なわれているとは知らなかった。たまたまつけたテレビで明日までと知りのぞく。もっと宣伝すればいいのにとも思ったが、デパートのお得意様には案内するのだろう。こういう催しの場合。まあどうでもいいが、作品はかなりの点数である。実物を見たことのある作品、図録等で記憶にある作品、そして新作も含め全貌が俯瞰できる。会場は仮設のぎくしゃくしたパネルが少々興ざめだが、一見の価値は十分ある。桂さんにとって「版画」は彫刻では表現できないより透明性をもった世界に思える。別に版画でなければならないとは思わないが、「版画」をしてこれだけ澄んだ表現ができるのは、版画との必然のめぐり合わせなのだろう。氏の彫刻を含めた作品のタイトルに”水”ということばが多く見られるのも何か通じる気がする。リトグラフでもエッチング、アクアチント、木版でも版種に合わせた表現にかえるのではなく、常につかみどころのない水のたたずまいのようなものを感じるのは不思議だ。インクや絵具を版にのせる際、かなり不確定な要素をもたせているようだがエディション分刷るわけだからその辺はうまいなあと思う。舟越 桂の彫刻にどうしても眼がいきがちだが、あの彫刻にかけられた流動性をもった彩色は彫刻に透明度をあたえるための手段なのだと思う。ギャラリーカワトクでも同時開催。

(2004.2.25)マンガ展 ギャラリー彩園子 第24回というから驚く。自分も同じくらい彩園子に通ったということになるのか。マンガ展もすっかり彩園子の年中行事の一つとなっている。ここで言うマンガとはマンガ的というか、オカタク考えずといったところか。ただ毎年テーマ部門と自由部門があり、今年のテーマは「サラームsalaam〈平和〉」とのこと。このタイムリーなテーマの設定があるから飽きないし統一感が保たれる。作品からやはり単にHappyな平和に向かうのではない、半分あきらめとそんなこと分かりきってるじゃないかといったメッセージが込められているようにみえ、笑うに笑えない。

(2004.2.17)ふたたび舟越 桂展 岩手県立美術館 東京展を入れると三回目だが、とても細部まで見ることができた。先日の講演会は、残念ながら抽選もれで、当った家人から様子を聞いたが、やっぱりなあという内容だったようで(うなずける意)、結構いろいろ雑誌やらでにわか知識が入っているものだ。そんなわけであらためて作品に向き合う。すると人体の具象(まあ近作は体はかなり異形だが)と言っても、ちょっと見え方が違ってきた。それは初期作品でもそうだが、人体としての比率が意図的に歪だし、変わっていないように見える頭部でさえ相当に変形を加えていることがより際立って感じられた。このことは表現する自分に一番近いところの人体を用いながら、もっとも遠いところにある自己を見つめる試行錯誤の作家の思いが一点一点に込められているからだと今日はよくそのことが分かった気がした。それにしてもここ数年の作品は彫刻としての立体性に加え、実に純度をもった色付けが目を惹く。初期作品は木彫がまずあって彩色を施したという手順が分かるが、近作はのせられる絵具も彫刻の重要なマテリアルになってきている気がする。今回の出品作品では「支えられた記憶」(2001)、「羽の門」(2000)、「肩で眠る月」(1996)などが好きだがカタログを見ると未見の多くの作品が海外に渡っていることにまた驚く。(「音のない水」や「月が走る」、「遠い雨」など気になる作品の多くがドイツトなど海外の個人コレクターや美術館に渡っている。)

(2004.2.15)前川 直 展 初日 もりおか啄木・賢治青春館 発掘・盛岡ゆかりの画家シリーズY−増殖する線のマンダラ−前川 直展(2・15−3・21)が開かれるという情報はわりと最近になって知った。DMは作らないようだが、岩手大学とくび(特美)同窓会の名もパンフに見られることからもこれから会期中在校生や卒業生も多く訪れることと思う。前川先生(1929−1988)については、大学時代、直接はほとんど指導を受けたという印象もないし、講義の記憶にあってはいったい授業があったのだろうか(失礼)と思うほど思い出せない。なのに先生のペン画をぺらっと1枚見せられただけの確か「細密描写」という授業の1シーンだけが鮮明に思い出される。多くを語らずとも一枚の作品が与えた影響は大きかったのだとあらためて思う。そして油彩や彫刻におびただしいペン画作品、先生の装幀された本の数々に向かい、先生の作家としての強靭な姿勢を当時学生に、あえて全て見せずに、実は孤高の精神で制作に没頭されていたのだということを今更ながら知らされた。とくにその細密画の血の通ったような極細の線の集積によるうねりを見ていると作家は今も作品の中に生き続けているのだと、ふたたび吸い寄せられるような錯覚を覚える。ただその緻密で精巧な作品群は、意外にも制作年代が不詳なものが多い。これは不思議だ。作品数が多いことにもよるだろうが、何月何日に制作したなどどうでもよい、もっと永遠の時間の中に先生はおられたのかもしれない。

(2004.2.13)コモン・スケープ 今日の写真における日常へのまなざし 宮城県美術館 ウィリアム・エグルストン、古屋誠一、ホンマタカシ、野口里香、ハイナー・シリング、清野賀子、高橋恭司、安村崇による。”日常生活へのまなざし”というテーマによってなんとも淀みを持った、それでいて気にもならない時間が会場に漂う。昨今のアートに多く見受けられる日常性への眼差しは写真表現においても認められる。このことは何を意味するのだろうか。そこには何気なく世界を見ていることで世界を認識していると錯覚している視線に対する、アンチテーゼがあるのか。共通して言えることは、凡庸な対象に向かう抑制された視線というか、意識的であってもあえて無関心を装うような。見ることと写すこと、見えることと写ることとは違う。(テキスト−着生のすがたより)写すことまたは見ることとそこに在ることとの差異に意識を向かわせるこの展のカタログテキストには妙なタイムリーさを覚えた。

(2004.2.11)磁気状況・2004 千葉 久美子/千葉 奈穂子 Gallery 彩園子 Gallery1,2を使っての個展形式による。二人とも平面作品であるが取り組みは大分違う。ちばくみこさんはCircleというシリーズ。パネルにアクリルそしてトレッシングペーパーに樹木を線描し、画面に貼り付け、メディウムやアクリルで変化をつけているように見える。淡い色彩がトレッシングペーパーを通してより半透明なニュアンスを醸し、重ねられた樹木のシルエットは不思議な距離感をもたらしているが、作者の模索の現れとも見える。ちばなおこさんはサイアノタイプによる青焼きした写真作品をパネルで見せる。まずその被写体が、羅漢像であったり田園の風景や父の実家の一コマだったり青焼きされることで一層、過去の記憶へと意識を向かわせる。しかしその記憶は東北地方特有の心のふるさと的な共通した記憶を呼びさますものではなく、むしろ本人がたどった視線の集積をつよくトレースしているように感じる。このごくごく私的な写真は作家自身によるドキュメンタリーに思える。作品の中には一枚の感光剤を塗った紙に焼き付けるのではなく何分割かしたパーツごとに焼き付けたものを一枚に貼りあわせた作品もあり、作者の時間への考察が表れているようで興味深い。

(2004.2.8)伊山 冶男 灯り展 Cafe'クリンゲンバウム 「あの角を曲がれば」「この角を曲がれば」で記憶から消失していく盛岡の風景を記録してきた伊山冶男さんの本に掲載されていない写真とリサイクル品から生まれた灯り(スタンド)の構成。一度消えてしまった風景は記録でしか残らないとはわかっていても、人ははじめて失ってみて気が付く。そういう意味でも”風景”とは変化していくものであることを愛情を注ぎながらも冷徹な眼で見るものに示す。灯りもまたいい。

(2004.2.7)柴田 有理 個展 Gallery la vie しばたありさんは、盛岡ではそう見ないタイプの作品をつくる。いわゆる美術を学んできましたというおしきせが感じない。作品は自身が描き出す絵であり、並べられた言葉でもある。そんな折衷感が見るものにちいさな混乱をもたらす。その作品は実に工作っぽいが、力をぬいているようでそうでもない。とても力がこもっている。それは描きたいという思いと、自分は描くことで自分を表すのだという思いの強さからくるのだろう。言葉を吐き出す前に自分の中で、言葉をろ過するのではなく通過させてしまうスピード。

(2004.2.3)昨夜は雪が小雨にかわったものの積雪量は平年並みか以上になったのか。気温がそう低くないため道路がミラーバーンにならずまだ楽だ。ちょっと郊外に車がさしかかると重く雪を抱えた枝が大きくしなっている。さながら樹氷ウォッチングのような滝沢の風景。毎日スキー場に通っているかのよう。積雪は50〜60cmはありそうだ。しかし日中は雪がゆるみ、厳冬にはほど遠い穏やかさ。

(2004.1.30)シリーズX[岩手の現代作家]「村井 俊二・溝口 昭彦」オープニング 萬鉄五郎記念美術館 シリーズの最後は活動年代も近い4人が取り上げられる。その第一部は、絵画の生成に疑問を持ち続ける二人の作家による。萬のこの企画は、岩手県にゆかりのある現代作家をあるまとまった時間軸上で俯瞰し紹介する。したがって毎回、知っているはずの作家の意外な一面や未見の作品に出会える。村井俊二さんの仕事は、岩手ではMORIOKA第一画廊での個展で90年代以降ふれてはきたがその活動の拠点は東京である。今回、子どもの絵に想を得た新作絵画を中心に未発表作品を含む氏の変遷を示す。90年代初頭から現在まで一つの型にはまらずに作品は変化を見せる。一見そのつながりを秩序立てることは困難にも思えるが、特にその変化の大きい新作において、子どもの描画に見られる身体性(垂直運動、水平運動、円運動)からくる描画運動を反復(トレース)する作業と初期作品に見られる縦のストライプや格子状にキャンバスの骨組みを意図的に暗示させながら絵画生成におけるその基軸に意識を向ける行為にはある共通性がうかがえる。「Child Work2003 アイリーン4才1ヶ月」という新作のタイトルから日本人の子どもの絵がベースでないことがわかるが、そこには日本の床置き絵画と欧米のイーゼル掛け絵画との違いからくるドローイングの相違が重要な意味を持つ。絵画研究を自らの絵画で実践する。
溝口昭彦さんの今回の発表は、物質感を感じさせながら不思議な奥行をともなう絵画作品を、複数の作品に直接投影したビデオインスタレーションを交えて見せる。よく溝口さんの作品に用いられる紡錘形《Spindle−Shaped》は普遍的な根源的形状として初期作品から見出せるが、しだいに自ら敷いたレールの上でシステマティックに自分が硬直することを避け、自己に向かう意識を意図的にずらす方法を取っているようだ。それは見るものには彼のもともとの資質からきているように思えさえするが、作品の寸法取りや材料の選択をとってもかなり意識的に行なっているのだと思う。今回、一階を仕切って展開しているインスタレーションは、それまでの自身の作品を壁面を構築するための素材として用い、反対側の壁面から自身がDVDに編集したビデオ映像を、部屋の中央にしつらえた様々な素材が貼りこまれた透過性をもったビニールのスクリーンを通して映し出す。その感覚は彼の作品世界をより奥行を持たせながらも、淡くしっかりとわれわれに印象づける。
展をまとめた立派なカタログも同時に刊行され、合わせて展を企画した萬鉄五郎記念美術館に出品者の一人として厚く感謝申し上げる。

(2004.1.28)TODAY’S ART TEXTILE FORMATION XVIII ギャラリー彩園子 全国6ヶ所の会場で開催という息の長い企画も18回目を数える。武蔵野美術大学テキスタイル研究室が事務局であり、この企画の中心におられる田中秀穂さんの作品に、80年代とても惹かれた記憶がある。火で燃やしたファイバー作品や、野外作品はテキスタイルに直接興味がなかったものにも、その可能性と意外性を示した。そして今、複数の出品者のテキスタイルの”今”を見て、伝統的な技法や様式の上で成立させようとする方向とそれを多少なりとも崩そうとする取り組みに二分されている様に思われた。しかしどちらにしても「テキスタイル」の領域を再認識させられるような感覚を覚えるのはなぜだろうか。見る側が「テキスタイル」を規定してしまっていることも一方であるように思われる。

(2004.1.24)舟越 桂 展オープニング 岩手県立美術館  東京都現代美術館から始まった桂展をついにこの地で観覧できる。開催までの関係者の尽力は想像以上であっただろう。他の展示会場を全て見たわけではないが、岩手での展示は特別な意味があるからだ。郷里での展示に氏もその意味のことを語っていた。出生地がどれだけその作家に意味を与えるのだろうか。それは決して辿れる記憶ではないにしても、その作家の思いのはじまりがそこにあることだけは事実だと思う。そういう意味で桂氏が盛岡を大切に思っていることはここに住む者として嬉しい。展示のほうは、作品より人、人で、この地でも氏の人気はすごいものだ。最初はオープニングのその雰囲気に圧倒されたが、人の流れも一旦落ち着いてから逆流しながら見返す。近作のデフォルメされた異形の人体から始まり、初期作品がまとまって並ぶ。あらためて初期作品からの変化そして作品の成熟を見る。ただ氏の作品の原点は1977年の楠による「聖母子像」にあると思う。氏の作品は常にどの時代においても同時代をみつめている。その研ぎ澄まされた眼差しは伝統的な手法でありきたりの人物像というスタイルをまったく新しい現代の表現にひろげた。そうした予感を初期の彫刻作品はすでに感じさせる。展示はやがて彩色も鮮やかな90年代作品そして最近作へと途切れることなく系統立てて見せる。ここでは実在する人物の抽象化された(ある意味で)リアルさから、人物像を通しての実験的な取り組みへと変化している。それまでの楠だけの作品に異種の素材を取り入れたり、胴体を到達することの出来ない山のように見立てたり、双頭の作品など・・・、そこにはもはや楚々とした人物の在り様とは別の、そこにある現実(実世界)に、背を向けずに作品を進化させようという氏の思いが感じられる。そういう意味において2003年作の新作「点の中の距離」と展の4日前まで制作していたと聞く2004年作「言葉をつかむ手」も展示され舟越桂の現在につながる全貌をうかがえる。三月二十八日までの会期。

宇田 義久 展 諄子美術館 宇田さんの作品はタイトルが作品の在り方を示している。gatherという作品はパネルに木綿の生地だろうかを張る際に、縦縞に見える一定の間隔を保ったギャザーを施している。ギャザーの形状を保つために見た目とは逆に、メデュームか糊状のものでカチカチに仕上げられる。そして幾層にも塗られたアクリル絵具が単色または混色により調子をとりながら表面を支配する。見た目はあっさりしているが大変時間のかかる仕事だと言う。2002年作の立体作品stairもあったが、平面性をともなう仕事により充実した面が感じられる。色彩と素材が心地よい合致を見せている。
ミカワ展(ミドリ刷り) クラムボン 三河さんの版画作品展。GREENPRINTSというタイトル通り、ミドリ刷りを中心に小品が並ぶ。個々の作品タイトルもそうだが相変わらず、真面目に見ようとすると拍子抜けする。しかしなぜか心地よい。やわらかい空気をもったprintsとpoudingの関係は・・・。

(2004.1.22)昨日までの少雪、暖冬が嘘のような夕刻からの吹雪。特に滝沢は深々と降り続いた。運転もやっかいだし、何より危険が増すが、音もなく降りつづける雪はすべてを覆い隠しながら、記憶の中にも降り積もる。深深と・・・。

(2004.1.18)岩手県立美術館 鑑賞支援事業 コレクション講座2003 「こんなにたくさんの萬作品がここにあるわけ」と題して講師は千葉 瑞夫氏(萬鉄五郎記念美術館長) 本県における萬作品収集の道筋は想像以上に困難を極めた。それは1965年の本県の美術館建設運動のスタートとも呼応し、1970年の岩手国体開催記念美術展、1971年コレクターである八木氏よりまとまった萬作品の本県購入、修復作業への着手、1973年岩手日報社より「萬鉄五郎作品集」刊行、県民会館開館し旧八木コレクション公開、1974年 1100点の遺作が本県に寄託されコレクションの充実(資料参照)、1981年県立美術館建設促進の会結成、県立美術館建設へと一本の線となって繋がることを改めて知らされる。「こんなにたくさんの・・・」の意味は、郷土の作家だから当たり前だろうという一般的な見かたをあっさりひっくり返す。実に興味深く、”美術館の本当の土台”というものは人々の熱い思いによるのだということを真に感じさせられた。

(2004.1.17)百瀬 寿 展 盛岡クリスタル画廊 金、銀箔により百瀬氏の作品は一層、神々しさを近年増している。展は横幅4Mを越える大作を中心に、手漉きのネパール紙をキャンバスにある規則に基づいてブロック状に盛った金、銀箔をほどこした絵具の上に貼り、その手漉きの濃度の違いでグラデーションを見せる作品、ペインティング、版画、ドローイングとバリエーションがある。共通して言えることは、色そのものの持つ絶対的な美しさを、物質感を伴うグラデーションで気付かせている点であろうか。ドローイングや小版画において試みられているハッチングによるグラデーションやラメの使用は氏の新たな方向性や可能性を暗示する。作品タイトルは「NE.Platinum to Aluminum」などマテリアルやグラデーションの規則性を明確に表している。(NE.はネパール紙とのこと)なぜか私はいつもMILES DAVISのKind of Blueの中の曲名を思い起こしてしまう。完成度の高い作品に身近にふれられることはいつもながら幸福だ。

(2004.1.15)舞田文雄と交友の画家たち《年賀はがきのアート展II》 もりおか啄木・賢治青春館 最近、盛岡出身の舞田文雄の作品にちょっと惹かれている。自作の制作工程が版木を彫ることに似ていることもあるが、彫ることと、刷ることだけ、あとは何の欲も感じられない作品だ。そこには現代の美術に欠如する素朴な表現にむかう力、また日本人が失いかけている民芸的な眼を感ぜずにはいられない。見直したい作家だと思う。
深沢省三「富士山展」 深沢紅子 野の花美術館 盛岡出身の深沢省三が晩年山中湖にある別荘で描いた水彩(ガッシュ)による富士山である。平凡にもなりがちなテーマを氏は主に特徴的な縦長な構図の中に一瞬の風の動きも薫りもとどめる。出品作品は水彩による風景のクロッキーともいえるスピード感のある描写だが、勢いのある筆跡は気品のある山を単に美しく描くのではなく、自己の精神の発露にまで高めているように見える。

(2004.1.12)第3回「40cmの玉手箱」展 Gallery彩園子I、II 岩手の現代美術INDEXも三回目を数える。出品作家は55人以上はいようか。実に多彩であり、楽しめる。作品それぞれに出品者の”今”が感じられる。何より彩園子がこれだけの作家と関わりをもち(もちろん全てではない)、多くの作家を輩出してきた功績に敬意を表する。また実行委員の努力あってのことだろうが、一声でこれだけジャンルの異なる人が集まるというコミュニティ−意識はすごい。まあ現代美術INDEXという副題にしては何でもこいという感じではあるが。

(2004.1.11)色彩の記憶 秋田県立近代美術館 記憶の原風景としての色彩 四季を彩る色彩 生活のなかの色彩をテーマに主に秋田県出身作家の絵画、版画、彫刻を展示する。まずその出品作家数、作品数が意外に多いわりに、秋田県の美術事情に疎いため作家層がわからないことが、やや親しみを欠いてしまう。ただ十人十色の色彩を見せることはいいのだが、制作年代もジャンルも用いる技法も異なるため、色別に部屋を分けて展示しても統一感がやや感じられないのは気にかかる。作品に用いられた主たる色彩やテーマとしての色彩という正に色分けは、同色だからと言って一つに括ることの難しさの方を気付かせる。問題なのは個々の作家が思考の過程において条件を削ぎ落とした結果として作品というものは成立するわけで結果としての色彩の共通性というよりも、各作家の目論見というものはちょっと違うのではないかと(違わねばならない)いう思いを残した。数点展示された勝平得之にはやはり惹かれる。盛岡出身であるが村上善男の[津軽赤倉山西南一帯釘打之図 2001]にも出会えた(区分けでは赤)。

(2004.1.6)いよいよ舟越 桂 展が全国巡回の終盤として盛岡にやってくる(1・24−3.28 岩手県立美術館)。展のポスターやパンフを見て実感がわく。いろいろな展覧会はあるが、作品に出会えることが本当に楽しみに思える作家だと思う。だれかが「世の中には無数の美術作品と言われるものがあるが、好きな作品に出会うことはなかなか難しい」という意味の話をされた。同感である。その点、舟越 桂氏の作品には、逆に嫌な部分が見当たらない。木彫の人物像というありきたりのテーマでありながら、新鮮な印象を与え続ける。氏の作品は昨年、東京都現代美術館で東京展を観たにもかかわらず、また違った魅力に出会えるような期待をさせるから不思議だ。新作(ポスターの作品)も加わると聞く。

(2004.1.1)謹賀新年 ツルツルの道路に身を引き締められる新年の始まり。雪が解けて、ちょうど路面が凍結するに絶妙な気温。しかし深夜の冷え込みとしては緩い。今年は少しはいい年になって欲しいと願う。

(2003.12.27)「ロンドン・アバンギャルド・ミュージック2003」富山智加江ビデオ映像記録集 ギャラリーla vie 映像製作に携わる富山さん(岩大特美卒)による今年の8月から9月にロンドンにて行なわれた即興音楽演奏の記録映像である。第一部「Live Tempera1,2」は即興演奏とマーカス・ヒースによるライブペインティング(なぜかテンペラ)。ビデオではあるが、ロンドンには観客と即興演奏者、ペインターの間にこういう自然な時間があることを感じた。音を聴きながら、ライブペイントを見る。まあ聴覚だけではなく視覚も交える意味で、音に呼応して?描かれる絵画は退屈しないのかもしれないが、即興の意味、定義についてここでもう一度考え直してみる必要は感じる。第二部はLMC(ロンドン・ミュージシャンズ・コレクティブ)フェスティバルの模様。これはなかなか面白い。約50名のパフォーマーが同時にまたは連鎖的に表現する様はパフォーマンスのオーケストラといったところ。こんなフェスティバルがあることもそうだし、延々何時間も観客を相手にパフォーマンスを繰り広げること自体、ロンドンの面白さと奥深さ?を感じる。合間のONNYK(金野さん)の解説でキース・ロウがジャクソン・ポロックのキャンバス床置きによるドロッピング(アクションペインティング)に触発されて、ギターを台の上に置き演奏する独自のスタイルを見出したという話が興味深かった。

(2003.12.26) 「色彩と躍動感の交響詩 奈知安太郎展 萬鉄五郎記念美術館 21日に終了したもりおか啄木・賢治青春館での展示と呼応。本展はほぼ1954年以降から1985年頃に制作された油彩とガッシュを中心にした内容。青春館の展示が初期からの回顧形式なのに対し、氏の独特の絵画様式が確立した後の作品か。初期の瑞々しい画肌がここでは力強く、好んで描かれる女性像も原始的な風格に満ちている。ほとんどが異国の地(リオやパリ)への眼差しによるが、初期の作品よりどことなく土着的で、ある意味日本的な色彩をそこに感じる。
「N.E.blood 21 vol.10 ササキツトム展」 リアス・アーク美術館 「N.E.blood 21」は東北在住若手作家を紹介するシリーズとして定着している。以前より企画展示スペースが約半分になったとは言え(半分はライブラリーとして機能している)、作家にとってはその力量がためされよう。ササキツトム氏はそういう意味でいかなる空間をも「絵画」の入口に変換する不思議な力を持っている気がする。作品タイトルは「Inside and Outside」と一貫している。このことは氏
の作品が「Inside」と「outside」との境界に位置し、われわれの思考も氏の絵画を通して現実と虚構、絵画がもたらす奥行と絵画の表面が物理的に観者にもたらす奥行の遮断、絵画の組成としての物質性の露呈と絵画がもたらす擬似空間性・・・・という複合した要素の反復を余儀なくされる。作品は一見、大胆な単なるブラシストロークによる抽象絵画に見えるが、作品表面をよくみると通常の絵具の刷毛塗りでは得られない尋常ではない平滑性と光沢に気付く。樹脂を溶解した油に絵具を混ぜ、色面を塗り重ねる(ときには鋭利なストロークが画面全体を制御する)という独特な手法は、作者の意思にあるときは従い、あるときはコントロール不能にしながら絵画の自立を支配しているように見える。

(2003.12.25) レースのオーナメントやつららのオーナメントなど白とクリスタルを基調に。バックには村上善男のリトグラフ版画「モンスーン f」」1977。今年の6月に行なわれた「村上善男全版画展」石神の丘美術館は氏の版画だけでの展開であったが、タブローの緊張感が版画というマルチプルな手法においても十分発揮され、あらためて氏の版へ、そして刷へのこだわりが感じられるいい展覧会だった。

(2003.12.23)常設展 冬期展示 前期 岩手県立美術館 各展示室の独立した展示はいつも楽しめるが、今回はじめて村上 善男氏の独立した展示に触れた。とは言っても60年代の初期作品から現在までの氏の広範な活動を俯瞰するのはまたの機会にということで、今回は'60年代の注射針を用いた「頻度n」のシリーズを中心に'70年代の作品2点と’83年に弘前に移り住む、その後の古文書等を用いた独特の釘打ちシリーズ1点による。氏の作品は、いつ、どこで出会っても、際立った完成度と厳しさを持つ。そこには美術によるところのフォークロアとしてとしての視点が常に介在する。透徹した風土を睨む眼を村上善男はもち続けている。

(2003.12.20)奈知 安太郎 展 もりおか啄木・賢治青春館 奈知さんの作品は単発的には見てきたが、まとまっての展開はあまり記憶にない。ただ奈知さんの自宅が我が家と空き地を隔てて向かい側にあたり、少年時代、よく赤いマフラーに長いコートのいかにも芸術家然とした紳士を近所で見かけた記憶がある。自宅アトリエの庭先でキャンバスを見た気もする。そんな奈知さんの絵はおよそ綺麗とは言いがたい、独特の茶褐色をしたうごめくような印象だった。今回初期のグラマンクをも彷彿させる風景から、独自の色調とデフォルメされた女性像や風景を眺めていると、遠い異国の地のざわめきが聞こえるようだ。作品からは越境者の視線が感じられるとともに、その作風は表現する自己をも遠ざける強い意志に満ちている。
版画研究室展 プラザおでって 岩大教育学部の芸術文化課程造形コース版画研究室の成果を発表する。技術的なことや知識の習得の上で求められるのは、表現する主体の問題だ。本展に限らず多くの学生作品に共通して言えるのは、まだまだ技術や知識のトレースに終始している点であろう。かなりレベルの高い作品もあったが、気になるのはそのことだ。
”プリン測定の記録”みかわわたる展 ギャラリーla vie みかわさんのとりくみはここ数年、面白い。プリン同盟なる組織?の会長であり実践者である。あまりここでは深い意味にはふれないが、単純に今回のプリンの揺れの記録(プリン振動装置を介してプリンの揺れがプリンの頂上部分にセットされた用紙に軌跡を描く)を会場の壁全面に貼るというインスタレーションは大真面目である。なぜプリンかという疑問はおそらく、そこにプリンがあるからとでもかわされるのか。

Assif Tsahar,Tatsuya Nakatani(From NY) 即興JAZZ DUET 初来日ツアー+入間川正美+Onnyk/
Gallery彩園子 一茶寮 緻密に鍛錬された音による荒々しいまでの戦闘とでもたとえ様か。ライブは金野さん(Onnyk),入間川正美Duoから始まり、NYからのDuo、4人のセッションと展開した。特にAssif Tsahar(Tenor Saxophone,Bass Clarinet)、Tatsuya Nakatani(Percussion,Drums)のメインアーティストのパフォーマンスは壮絶なインプロビゼーションとなった。ハードな日本ツアーの最終日ということもあり相当に疲労も蓄積していただろうが、締めくくる最高の演奏だったのではないか(想像)。
セッションした金野さん(sax.)から前日、20年前の演奏と今とどうかわったか見て欲しいとメールをいただいたが、たしかに20年前この会場でエヴァンパーカーの初来日ライブが行なわれ(私もインスタレーションでかかわったと聞き、当時のたしかライトアートを思い出した。)、金野さんがセッションしたと記憶する。そして今回、感じたのは、単に放たれた音ではなく、”音”が確かな意志により残像を描く感覚とでも言おうか。入間川さん(cello)の熱演といい、充実した演奏であった。

(2003.12.13)円山応挙 展 福島県立美術館 数少ない巡回の機会。日本画はその性質から極めて移動が困難であり、重要文化財、海外からの里帰り作品、「応挙寺」として名高い大乗寺の障壁画三部屋の再現など極めて貴重な展示である。まずその作品量と死の直前まで描くことへの力に満ちた応挙の作品群に驚かされる。日本画という西洋美術の文脈にはなぞられない独自な表現形態云々と言う前提抜きにそこに在る作品のすごさは、昨今の美術表現と直接比較することは無意味かもしれないが時代の気分に浸りがちな現代の美術に強烈なカウンターパンチを与える。超えることの出来ない「自然」に対して「自然」をそのまま写しとろうというと簡単に聞こえるが、表現する自己を無に近づけるというABSOLUTEを目指す思想は、現代においても深い意味を投げかける。来年2月から3月に江戸東京博物館を巡回。

(2003.12.12)山内 正宣展 ギャラリー彩園子 個展はかなり久しぶりだという。変わったという印象もあるかもしれないが、山内さんの器用なところは変わらない気がする。作品には最近、平面性(支持体または壁面)への興味が出てきているようだ。

(2003.12.9)萬鉄五郎記念美術館での岩手の現代作家展カタログのための作品撮りを行なう(最終)。今日は’89年に制作した立体作品2点を引っぱり出す。1点(岩手県教育委員会蔵)は13年ぶりに以前の姿を見た。当時の自作の今の仕事にない大胆さ(強さ)と素材的なもろさ(弱さ)とを同時に感じ、妙な感覚になった。

(2003.12.7)京都国立近代美術館所蔵 日本画名品展 盛岡市市民文化ホール 館が誇る京都画派を中心とした日本画の作品は、普段西洋画に慣れ親しんだ眼に実に新鮮だ。言葉では分かっていても西洋画の遠近法に表れる合理主義とは明らかに異なる空間観、価値観が垣間見られる。日本画の平面性の中に見られる深い精神性を持った奥行観は、本来日本人が伝統的に引き継いできた希有な文化なのだが、西洋文化に慣らされた日本人は、内面的空間観まで変わってしまったのかもしれない。富岡鉄斎 上村松園 徳岡神泉 山口華楊 土田麦僊 村上華岳 秋野不矩 加山又造 ほかによる。
板垣崇志展 ギャラリーLa vie 漆黒の画面の雲の切れ間から微かではあるが強い精神性を持った光が発せられる。異なる和紙にアクリル絵具で彩色された具象的絵画は表面的な写実とは異なる精神の絵画という気がする。

(2003.11.30)常設展 秋季展示 岩手県立美術館 9月12日から11月30日までの秋季展示は作品のよさと美術館の建築空間とが絶妙にマッチングしていた。あれだけの広さをもつ空間に十分すぎる間隔で作品が並ぶ。しかし空間に決して負けない作品はさすがだ。加守田章二と百瀬寿の響きあい、舞田文雄の再発見、福井良之助の絵画のような孔版画・・・そして、竣介と舟越の部屋は圧巻であった。建築を意識させる展示はあるようでなかなかない。

(2003.11.29)三人展 高橋忠弥 松本竣介 澤田哲郎 MORIOKA第一画廊 MORIOKA第一画廊の展示はときどきキャプションなしに、無造作に展示していることがある。訪れる者は半分ためされているかのようだ。作品のタイトルや作者名を確認して作品を見たことに満足する場合が実は多いが、説明がないと逆によく作品を見ることに意識が向かうから不思議だ。純粋に作品に向き合うことは重要に思う。高橋忠弥の静物(花)の油彩をじっと眺めていると色彩が純度を高めて浮き上がってくるように見える。それはとても現代的な感覚にさえ感じる。三者共通した強靭さが伝わってくる。

(2003.11.26)仕事で夕刻より陸前高田市へ 東和IC(現在のところ釜石道の終点)経由で向かう。深夜の帰路、同じ道筋を深い闇の中、飛ばした。陸前高田市から花巻までの約90キロの区間、対向車は何台かすれ違ったが、同じ路線を走る車は途中たった二台だったのには驚いた。岩手の闇の深さ、そしてわずかに点在する家の灯りにふと自分の住む風土を考えさせられた。

(2003.11.24)11人の彫刻 展 盛岡クリスタル画廊 グループ展において、彫刻家の小品展というとエスキースを並べたプレ展示という印象があるが、今回の展示は小品ながら個々の作家の実力が十分に小作品の中から見える密度のある内容。盛岡在住の百瀬さんの出品作はここ数年キャスティングされた小立体は見ていたが、木材に直接カービングを施し、グラデーションを表現するという興味深いものだった。色彩の要素を用いず、木材の表面に鑿?をあて、かき落とす際の作者の呼吸がつくるグラデーションは静かな波紋を生み、とても新鮮に見えた。
石川 美奈子 展 GALLERY彩園子II 大掛かりなインスタレーションである。床一面に堆積した白い貝殻と二十本以上はあろうと思う白い円柱が迷宮に誘い入れるかのように樹立し、随所に仕込まれたライトが白い空間を静かに強調する。展のタイトル”Vague”は波や海をイメージさせながらもVagueのもう一つの意味である、ぼんやりした、中間の、曖昧なという意味合いとフェミニンな印象が重なり合う。空間を一つまるまる用いた作品は、余計な要素がなく独自な世界を作っている。

(2003.11.23)生誕100年記念・没後20年 岡田 謙三展 秋田市立千秋美術館 岡田謙三作品は千秋美術館を訪れる度に常設展でも見慣れていたが、館所蔵の作品に加え、横浜美術館、社団法人北里研究所他の出展により氏の画業の全貌を示した密度の高い展示と言える。あらためて戦前のヨーロッパ美術の影響を受けた洗練された女性像と1950年に渡米してから自らのユーゲニズム(「幽玄」から)と呼ばれるスタイルを確立するまでを回顧できる。とくに抽象作品はジャポニズムを前面に感じさせ、見る側も日本人であることを作品を通して間接的に再認識させられる。それにしても何がジャポニズムを醸すのだろう。その淡い色彩を頭の中で赤と黒などの別の組み合わせに変えてみると全く違ってくる。あの色彩を洋画材で描くことの意味をいつも考えさせられるが、それを言ったら始まらない。しかし色彩ばかりではなく、日本人としての精神性が垂直性を基軸にしたその構図(アブストラクト)に一寸の狂いも許さぬ静かな緊張感をもって反映されている。岡田謙三と秋田市のめぐり合わせは知って納得させられる。

(2003.11.18)菅 木志雄 展 ギャラリー彩園子 タイトルはまだない。水が満たされた透明なビニール袋がギャラリーの敷石を避けるように円形に敷きつめられている。その中心部には袋一個分の隙間があり、呼応して天井から水の入った透明なビニール袋が吊るされている。水の入ったビニール袋の間には数枚白い発泡スチロール板が差し込まれるが、水の重力に従った”構え”に対してそこだけ軽やかだ。ほぼスクウェア−な会場の隅に一個だけ水が入った透明な袋が距離を置く。菅さんの作品は、いくつもの要素が関係性をもちながらも決して所謂、従前的な作品の完成を示さない。われわれは用いられる素材や場との関係からその答えを求める。しかしある終結に向かう作品では決してないのだ。常に素材の決定、用い方には流動性が見え、完成した作品であっても実に危うくそこに在るだけなのだ。しかしその解き放ち方が菅木志雄そのものなのだ。実在としての作品の完成という概念や意識とは別のところで菅さんに選ばれた素材は新たな居場所を得ながら存在の意味を時には自明にし、また異化し始める。プライベートな雰囲気で菅さんの作品に出会えることは幸福である。そして横浜美術館での集大成(1999年の菅木志雄 スタンス)は圧巻であったことを思い出す。

(2003.11.16)ヴェネツィアの光と影 展 岩手県立美術館 ヴェネツィアがもっとも繁栄した16世紀から18世紀までの作品をワルシャワ国立美術館より出品。数年前、イタリア年に合わせたイタリア美術展を上野の西洋美術館で見た時は一つの作品の前に数秒しかいられなかったが、今回はとてもゆったりと鑑賞できる。しかも作品の細部が至近距離から見られる。絵画の歴史などと軽々しく日頃語るが、西洋絵画の歴史は絵具、基底材、絵具を定着させるための下地材の研究の歴史そのものであることを数ミリの絵画の厚みの中からひしひしと感じる。今展は作品と対に最新の技術により絵画を科学的に解析し、手法や使用素材を解剖学的に解明する試みとを同時に見られる。こうした研究を見ても絵画を一つの化学の産物として捉える側面が西洋にはあることに気付かされる。絵画に対する科学的究明を資料の公開によって、多少なりとも共有できることは歴史を補う上でも大いに意味があろう。来年1月12日まで開催中。

(2003.11.15)遊びの歩道 社会実験事業 これは国土交通省が助成する地域振興事業といったものか?東和町のメインストリートを住民の夢の実現のかたちとしての「遊びの歩道」とするプロジェクトということの様だ。このメインストリートは萬鉄五郎記念美術館におじゃまする際、四季を通して迎えてくれる。この町を訪れた者なら感じるであろうなにかほっとさせる懐かしい道なのだ。また地域の住民にとっては欠かせない生活道路なのだろう。しかしこの町も例外にもれずやがて道路の拡幅により町の姿が変貌するのかもしれない。そこに立ち上がったのが住民による、道を通して夢を実現するこのプロジェクトなのだと聞く。道路をこの期間だけ半分歩道に見立て、パーテーションごとにアートの分野では4人のデザイナーが全天候型の作品を見せる。その雰囲気は屋台や小規模ながらステージ演奏ありでほのぼのとしている。商店もこのときばかりは活気が見られる。はじめての試みと聞くが、町の変貌は社会の変化の速度によって加速する。この町だけがいつまでもこのままの姿で残ることは不可能だろう。時間はない。画一的な開発にあう前に、住民のビジョンが四日間の実験に終わらず、しっかりと刻まれて欲しいと願う。萬鉄五郎はどう思って見つめているだろう。

(2003.11.10)道の駅南郷(青森県)にある”JAZZの館NANGO” 道の駅に隣接した岩手町の石神の丘美術館で驚いていてはならない。なんと産直販売コーナーとほどない距離にJAZZスポットNANGOがある。ライヴもあるし、もちろん食事もできる。たしかに南郷サマージャズフェスティバルは知られてきているが。こういうスポットがあるとは。建築もどこか隠れ家的(フラットなコンクリート打ちっぱなしか)で、看板のJAZZの文字がいやでも誘い入れるという感じだ。館が誇る音響設備がならす良質な音とJAZZ一色の空間に道の駅にいることを忘れさせる。

(2003.11.9)今日で終了したアートフェスタいわて2003(岩手県立美術館) 岩手芸術祭の選抜展は書道を含めた10部門が一堂に展示された。考えるに県の芸文美術展では似たようなスタイルもあった様に思うが見え方はまったく異なる。美術館という器は作品の良さを引き出すと同時に突き放す厳しさも持っていると思う。各部門がそして展として美術館に展示することで従来の県民会館における展示とどう変化したか興味深い。美術館の会場としての良さは言うまでもないが、個人的には県民会館の展示空間もそうわるくないなと逆に思ったりした。それはあの場でかかわったから感じる空気の違いのようなものだろうか。

(2003.11.5)気が付いたらカウンターが1、000をしっかり越えていた。このところ急に増えた感じだ。リンク集に新規に登録していることもあると思うが、このページをリンクしていただいているページのおかげだと思う。ずっと訪問して下さる方にも感謝したい。まだまだ迷走状態ですが今後とも宜しくお願いします。

(2003.11.4)例年11月に入ると冬タイヤのことなどそろそろ考え出すものだが、このところやけに暖かい。気の早いクリスマスの飾りが浮いている。それでも標高の低い山も紅葉はそろそろ終わり、平地でも初雪の頃だ。

(2003.11.3)版画家としての シャガール−夢想と追憶のポエジー− 展 萬鉄五郎記念美術館 平成15年度 市町村立美術館等活性化事業・第四回共同巡回展 このような共同事業は閉塞的になりがちな特に地方における美術館の新たな方策として注目されよう。各美術館がある時は垣根を越え、意識を介入し合えることは館にとっても観者にとってもプラスになることと思う。 展の内容はシャガールが手がけた挿絵シリーズの版画作品がシリーズ毎に見やすく並んでいる。正直マルク・シャガールといえば独特な詩情豊かな油彩画の印象があったが、画家の版画といえばエスキース的なものだろうという思惑は一瞬に崩れた。生涯2,000点ともいうシャガールの版画は「もし、私が油彩画だけを描き、エッチングやリトグラフの制作に携わらなかったならば、どこかしら欠落した人生になっていたにちがいない。」と語るシャガールにとって欠く事のできないものだったのだろう。そこには、人生の喜怒哀楽がシャガール自身の生と重なり合いながら内省的な画面世界を展開している。作品は銅版画と石版画に大きく分かれるが、銅版画(エッチング)はきれいに刷るというよりも一点一点に魂が込められているかのような荒々しい印象さえ与える。とても魅力的なシャガールの”黒”だ。シャガールという画家を図版でしかしらないときっとわからない側面であろう。そして石版画(リトグラフ)は油彩画の美しい色彩そのものの至福にあふれている。その刷り工程の複雑さを感じさせぬほど。ストーリーはストーリーでかなり面白い。

(2003.11.2)カウンターが1000に近づいている。納得いくものには程遠いが、たまにのぞいてください。
アートフェスタいわて2003 岩手県立美術館 岩手芸術祭の選抜展である。県立美術館にとっても参加者にとっても、見る側にとっても初。岩手芸術祭には多くの思い出がある。学生時代から10年以上は関わりがあった。そして同じくらいの時間が流れた。展は2003年の岩手芸術祭の入賞作品と各部門毎に枠があっての推薦作品(過去の出品者から)という心憎い?構成。出品者の顔や当時のことが重なる。県展のレベルもあらためて客観的に見えてくるが、各部門が実はかなり相乗的な効果を与え合っていたことをうかがい知った。それは会場での自然な会話などにも表れている。芸術祭の功績は認めた上で、部門のそして芸術祭のマンネリには陥って欲しくないとも願う。

(2003.11.1)石神の丘美術館(岩手町) 橋場 あや展−色彩の詩(うた)- 開場式 作者自身の言葉を聞き、作品に対面する。作品点数の多さにもこの作家の充実した制作が今日まで維持されてきたことがわかる。また、年代毎に作品を追うとかなり早い時期に現在のテーマや表現スタイルが確立していたことがわかる。近年は絵画の基底材や表面のありかたなどにも変化を加えているようである。氏のエネルギーに圧倒されながら、今回初めて見ることの出来た最初期のまだ色彩が輝きだす前の作品は新鮮で、原石の荒削りな魅力を覚えた。
国際芸術センター青森 ”Vernacular Spirit”2003年秋のアーティスト・イン・レジデンス展 A.C.A.Cは建築家安藤忠雄氏による設計である。大きすぎず主張しすぎず自然に溶け込む氏の設計は、一目で安藤忠雄を感じさせる。展示室の大きく弧を描く壁面にすら自然光が差し込み作品とのコラボレーションを見せる。そんな空間の中で新井厚子、クリストフ・ルース、富田俊明、出月秀明の4人の作品、別室でイスクラ・ディミトロヴァ、野外でロレッタ・ヴィシーチの作品を見ることが出来る。アーティスト滞在型の制作は個々人のそれまでの仕事がこの地の自然や文化、人的交流、アーティストにとっては現実的な材料の調達など物質的、精神的な環境の変化の中でどう展開するか興味が巡る。作家もどこかで試されていると同時に作品を通して見る側も、普段気にもとめなかったこの地のことに気付かされたりする。展示作品には最小限のキャプションしかついていない。見る側は何も気付かずに通り過ぎるかもしれない。作者の意図を読み解くにはある時間が必要とされる。作家との直接の交流(制作過程含む)を通して作家と作品を知ることのできる環境は羨ましい。

(2003.10.28)Gallery彩園子 TEXTILE展 1986年より開催されてきた同展のひと区切りの展覧会。結構今まで見てきた気がする。それは岩手大学教育学部の特美染色科への興味と同時に同時代の表現として”TEXTILE”というジャンルをどう踏まえて乗り越えていけるかに期待してきた。結論は当然出ないのだが、展パンフの序文に齋藤式子先生が書かれた”工芸はアートの世界に非ず・・・・”に対する論争はそろそろその方向性を見出したように思える。その上で
”TEXTILE”という概念の見直しと教育機関として大学で何を学ばせるかというどこにおいても共通の問題に取り組まねばならないのだろう。

(2003.10.25)MORIOKA第一画廊 山本 容子 展 技法を駆使して見せつける版画とは対極の、ニードルでことばを奏でるかのような作品群。イメージがちりばめられた画面には実際ことばが刻まれているが反転させて描いていることを考えると、作品から受ける印象はあっさりしてるが版を使うというファクターを上手く自分のものにしているのだと思う。ただ手彩色による表現が、以前に見た作品の印象よりもやや記号的に見えている気がする。魅力のある作家だけに手の痕跡をもっと見たいと思うのは私だけだろうか。しかしどろどろしないところがこの作家の持ち味であることも事実だ。

(2003.10.17)紙町銅版画工房 叶さん銅版画展最終日 作者についてはあまり知らなかったが、作者と作品がやっと結びつく。描くことへの愛情のようなものが、点数こそ少ないが小銅板に刻み込まれているように思う。

(2003.10.13)ギャラリー彩園子 岩渕俊彦 展 昨年の喫茶 六分儀での展示以来であろうか。作品のポートフォリオや年代別のファイルを見るに岩渕さんはもともとモノタイプの版画をインスタレーションで展開したり、ドローイングによるダイナミックな空間を作ってきた。マルチプルな版画の特性というよりも一点で見せることに重きを置いていたように思う。近年の銅版画作品はそうした発表を小銅板に凝縮しながらも十分な空間性を得ている。

(2003.10.11))盛岡クリスタル画廊 本田健 展 オープニング。すでに情報としては本田さんのドローイング以外の作品(油彩)の存在は知っていたが、正直なところ想像以上にドローイング作品とは異なるものだった。それはすべてが違うというか、この作家はドローイングでは表現しきれないこんな触手をもっていたのかという驚きであり、総体として
本田健なのだと理解しようとするが、両者の間を思考がいったりきたりする。氏がドローイングのリハビリ的な意味でこの油彩があるという意味のことを語ったことが興味深い。ドローイングの並外れた描写力と労力の積み重ね(他者は結果として描写されたもので判断するが、本人の意識は少し違うところにあるのだと思う)は一つの完成形に達したということだろうか。 

(2003.10.5)石神の丘美術館 コレクション展。 多種多様な版画表現を岩手県にゆかりのある作家を含めた近現代にしぼってコレクション。選者の確かな眼を感じるとともに今後一層の充実に期待が持てる。
盛岡クリスタル画廊 谷川晃一展 最終日にすべりこむ。パステルによる描画はプリミティブであるが、きわめて完成度が高く、描線の迷いのなさが印象的。

(2003.10.4)萬鉄五郎記念美術館 〈カッセル グリム兄弟博物館所蔵〉永遠のグリム童話 展 。本当にいいものは子どもが見ても大人が見ても共通の芸術性を与える気がする。

(2003.10.3)
 諄子美術館に立ち寄る。岡田卓也展と常設展示。岡田さんの作品は立体が魅力的だ。小さくても大きさがあっても琥珀にとじこめられた時(時間)を見る思いだ。だいぶFRPの透明な処理に苦労しているようだが、クリアーに見せるのがいいのか、わざとクラックをいれるくらいのほうがいいか・・・・・、いずれにしてもFRPは臭気とコストの面においても苦労すると思う。
 昨日は松尾村の八幡平でも雪が降り、今日の昼過ぎ岩手山でも初冠雪(盛岡の観測所からは見えなかったらしいが)

(2003.9.28)
 岩手県立美術館で現在展示中の彫刻家和泉正敏さんの”作家によるトーク”を聞きに少し遅れて美術館着。すでに屋外に出て展示作品を自ら解説中。素朴なお人柄がにじみ出たお話。素材を削ぎ落とした結果残る必然の”かたち”と素材に手を加えないことによって最大に引き出された”かたち”とを私は感じた。氏は言葉を選びながら、石というもともと自然の中にあった素材に対して表現として抽象であることの意味を興味深く話された。

(2003.9.25)
 乱雑にたまってしまった作品を整理し始める。比較的大きい作品は大きさ的にはそろっているが、意外に小品がやっかいだ。結局小品は実験的な作品が多く、残すべきか残す価値がないのか難しい。
 今日はたまたま見つけた”ジャズピアノ工房play ビルエバンス”というページの作者にリンクの承諾をいただく。初めてのアート以外のリンクだけどジャズの音と音との間のプレイヤーのかけひき(即興)が何とも好きだ。スタンダードだがエバンスはよく聞くレコードだ。(あえてレコード)

(2003.9.22)
 戸村茂樹さんのMORIOKA第一画廊でのオープニングパーティに少し遅れておじゃまし結局ラストまで話を伺う。今回もドローイングとエッチングによる展開であったが、並列させた展示では、統一されたイメージをもちながら両者の技法的にもまた意識においても異なる側面をより明確に示している気がした。特にドローイング作品がどんどん単純化されている点と細密な描写によるエッチング作品とが今後どう振幅し合うのか興味深い。


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