過去のVOICE  2007.4.1-2007.9.30


2007.9.29 宮本義満 展 ギャラリーBun オープン企画A

2007.9.22 アートステーションギャラリー 今日から始まります。高杉隆展と同時。ゴトウ・シュウコレクションも見ることが出来ます。 

2007.9.9 「駄美術」って http://www.excite.co.jp/News/bit/00091189052058.html  

2007.9.8 早坂幸子 石川深雪−絵画と陶立体展− 旧石井県令邸

2007.9.2 いわて・きららアート・コレクション十年の軌跡 岩手県民会館《第一・二展示室》 県民会館の一階、二階を埋めつくした作品はいままで観たどんな作品よりもある意味において力を感じるものだった。なによりもどの作品もいいのだ。その集積された思いは、知的障害やハンディのある人たちのアートという漠然としたイメージを軽々と覆す力を持っている。ただその思いにはほとんど戦略や作為はなく、彼らの日常の表出(作品という姿による)なのだろう。だからこそその淡々とした行為に光を感じるのだと思う。

2007.9.1 宇津宮功 展 渡仏40年−パリで紡がれる神話世界 開場式 石神の丘美術館

DISTANCE/1984,2007について
 [DISTANCE]というタイトル作品を発表したのは’84年のことであった。運搬用木枠と粘土による作品は、当時展示のことも考えずに制作され、重量もかなりのものだった。それでもギャラリー彩園子(盛岡)’84と大通りに当時あったC&A スタジオ214 ’89で二回だけ展示された。そして当時の作品は、ほぼ現存しない。自分の作品はずいぶん変化をしながら現在に至ってきたように思われる。自分の作品を否定することで新たなものが生まれると思い込んでいた時期もあった。[DISTANCE]も長い間自分の中では、意味づけすべき項目から外れたところに常にあったように思い返す。[DISTANCE]の意味は直訳による単なる物理的な間隔・距離といったことを指していたのではなかった。目に見えぬものを埋めて距離を測るというわたしにとって朽ちた木枠に粘土を込めて、削り出していく制作過程そのものを意味していた気がするのだ。


2007.8.31 コレクション展「アートの散歩道〜洋画編〜」 秋田市立千秋美術館
TURMにて版画作品を見せて頂く。

2007.8.29 吉本義人彫刻展 連態・壁態・依存 せんだいメディアテーク1Fオープンスクエア
どこかで見覚えのある作品と思いましたが、昨年花巻市(東和町)でのアート@つちざわ〈土澤〉で佐々寅外部ブロック塀に存在感を持ってありました。たしか。
菅野修 ATOG展 ONNYK(Sax)+鈴木耕平(Bass)+小原正史(Percussion) ギャラリーla vie

2007.8.22 東京藝術大学創立百二十周年記念企画 自画像の証言 東京藝術大学大学美術館陳列館
東京芸術大学では卒業時の課題として自画像の提出を伝統的に行っている。 画家を志す若き学生のその自画像はすでに画家として確立する先をすでに暗示している。
自画像に何を表すかそれは現在も過去においても変わらないテーマなのだと思う。 表現するということは歳を重ねるごとに変化していっても、最初の一歩というものは何かその人(画家)の生き様を貫くものではないかと思う。 そういう意味で課題ではあっても学生の時代の最初の自画像を芸大では永久保存(買い上げ)していることはとても意味のあることだと思う。そしてこの自画像コレクションそのものが日本の近代から現代へと貫く 日本美術史を相当部分指し示しているように思えることも、東京藝術大学の影響力を如実に表しているといえよう。

金刀比羅宮 書院の美 応挙・若冲・岸岱 東京藝術大学大学美術館
芸大コレクション展 歌川広重《名所江戸百景》のすべて 東京藝術大学大学美術館 地下2階展示室 を観る。

 横浜美術館とは縁があるのか(勝手な話)、結構いい展覧会に出会っている。今回の森村泰昌展は自分にとっていつ以来の氏の大規模な展覧会だろうか?森村作品は展で直に観るよりもメディアを通してイメージが刷りこまれている部分が多いのかもしれない。または実作品も常にメディア(広い意味のコピー技術等)を介してわれわれの眼に焼きつく。つまり森村泰昌の表現は実作品(美術史の中に自身の体を内側に入れるような−そこには巧みなメディアによる操作がある)を意識的にメディアによって反復させることで、われわれが西洋の美術をメディアを通して知ったような気になっていることに対して多重的なループ構造を作品として投げかけているように思う。氏の作品の登場はセンセーショナルであり、自身の論理的武装以上に玄人受けしたような印象を持っている。早い時点で評価が高まり、むしろその後どう展開させるかも気になるところであった。今回の「美の教室、静聴せよ」展はここ最近の氏の独自(ある意味意識的に平易な)な「美術」の読み解き作業を、展自体を美術の授業にするという面白い切り口で、まさに夏休みの課外授業的アプローチである。多少、今までの作品を授業というターム毎に再展示しているようでもないが、特筆すべきは、展会場の入り口で”無料”で配布される音声ガイドで各授業が森村自身の声による解説で受けられる点である。実はわたしはこの音声ガイドを受け取らず一度観てしまい、後になって修了テスト とともに音声ガイドを返すシステムだったことに気づき、もう一度入り口に戻って音声ガイドを手にさらっと一巡した。すると各セクションごとの展示の意図が再確認できそれなりに楽しめました。そんなわけで修了試験は一問間違いましたが、まずは合格をいただけたかと思います。「静聴せよ・・・」かの三島由紀夫のパフォーマンス?は展の中で一種、美術を作品の内側から捉えなおす氏の試みとは異なる、思想の時間軸をたどる(反復)新たな側面を見せていたことも印象深いものだった。


2007.8.12 常設4人展 舟越直木・浅井健作・北郷悟・小林孝亘 MORIOKA第一画廊

2007.8.9 最近更新が出来ないでいましたが、この間に観た展は、〈生きる〉展 現代作家9人のリアルティ 横須賀美術館、モネ 大回顧展 国立新美術館、山口晃、会田誠 展 上野の森美術館はじめての萬鉄五郎−イラストで見る作品と生涯− 萬鉄五郎記念美術館、ピカソ展 岩手県立美術館、レイモン・サヴィニャック展 岩手県立美術館、絵で読む 宮沢賢治展 萬鉄五郎記念美術館、シバコレクション 少年美術館展 もりおか啄木・賢治青春館、金田一 康[キンダイチ コウ] Trickled Colours ラ・ヴィ、小笠原卓雄 展 ギャラリー彩園子などなど。

本田健本田恵美 二人展 ギャラリー彩園子 2007.6.11−16 

本田健さんの作品を彩園子で観るのは久しぶりだ。それも今回は本田さんのトレードマークであるチャコールペンシルによる風景画でない。油だけの展示だ。本田さんがチャコールペンシルの仕事と平行して油絵を手掛けていることは、現在は閉廊になっている盛岡クリスタル画廊での展示や直接観ることは出来なかったが銀座での発表等で知っていた。その油絵はサムホールや比較的小さめのキャンバスに絵具を塗り込めて描かれた半抽象的な作品などであった。推測するに本田さんにとってはチャコールペンシルで風景を描写する仕事に対しての油絵のもう一つの仕事は衝動的な取り合わせでもなく、自身の制作において連関するものなのではないかとひそかに思っていた。

チャコールペンシルの仕事は一見、本田さんが暮らす遠野のごく日常的な自然の風景を写実的に再現しているかの様に見える。しかしその制作過程は実にシスティマティクで写実的に見える表現の背後には眼に見える風景(事象)から意図的なる風景の分解と抽出、再構成が見て取れよう。

彼の油絵の仕事には素材こそ違うがチャコールペンシルの仕事に繋がる眼差しをどこかで感じていた。油絵具はアクリル絵具に比べて乾燥が遅く、彼の独特の絵具を丹念に塗り重ねてマチエールをつくるような油絵表現にはチャコール作品とはまた違った時間と忍耐を要するだろう。しかしこの素材の選択から強いられる時間の要求が、本田さんにとっては大画面をチャコールペンシル一本で描くその時間と共通する思考の時間として重要なのではないだろうかとも思う。

しかし、今回の発表では以前のやや抽象性(より強い構成上の単純化というか意図性)がある仕事から、完全に写実的再現性を伴った表現に変わってきている。彼のチャコールペンシルによる表現でもモチーフに成り得るような風景や事象の選択が取られている。自身が仕掛けるこの企ては、われわれに彼のチャコールペンシルによる仕事と油の仕事により強く意識を向かわせる結果になったのではないか。本田恵美さんの白いオブジェはまた後ほどふれてみたい。


  「平成十九年度常設展特別展示 〜北に澄み続けた美術家の、五十年をめぐる旅」
村上善男の軌跡 青森県立美術館。

村上善男氏がその生に終止符を結んでから一年が過ぎた。まるでその死を予測するかのように最後まで氏は仕事に没頭された。氏の盛岡にあるご自宅が私の家から歩いて数分ということもあり、氏が病に伏されてからは家の横を通るたびに出窓に無造作に?置かれた風向計を眺めては氏の様子をうかがい知ろうと思ったものだった。私には氏の作品が、2000年以降急速におびただしい数と質をもって迫ってきて、そして去っていったように感じられる。それは氏の仕事に初めて触れた70年代から、盛岡から根拠地が遠く津軽に移り(70年代はすでに仙台に移り住んでいたわけだが)2004年に盛岡に還るまでの密度を持った時間の連綿としたつながりの確認作業であった。川崎市岡本太郎美術館、萬鉄五郎記念美術館、石神の丘美術館、湯本美術展示館での回顧展、岩手県立美術館での特別展示等、特に50年代からの氏の作品の変遷を時系列的に示す格好の機会を数多く得られたのだった。各時代についてふれることは後の場でとして、今展について記憶に残ったことを記すことにする。

会場となる青森県立美術館は三内丸山遺跡に隣接するロケーションに溶け込むように佇む。外観から内部の複雑な構造は想像しがたい。ホワイトキュービックな美術館に慣れ親しんだ目には一瞬、防空壕にでも迷い込んだような違和感とも言えよう感覚を覚える。それは一般的な館内を巡る動線とはやや違った体験であり、一瞬不合理で不親切にさえ思えたのが第一印象であった。しかし二度目に訪れる機会を得た今回はまた少々印象が違ってきた。企画展の合間で常設展示のみを観たのが、消化不良を起こさなくてよかったのかもしれないが、この館の特徴的な大小変化に富んだ空間の在りようが展示作品と前回の印象以上に呼応しているように感じられた。そして村上氏の作品はシャガールの大作アレコを見上げる展示空間の脇を入った一角に赤い展を示す看板に誘導されるかのごとく静かに在った。展の内容は、わざわざこの展示だけを観に往復360キロ以上もかけて飛ばしてきたかいのあるものだった。作品は大回顧展のように詰め込まず、各年代毎にピックアップしながら弘前に居を移されてからの80年代以降の作品を中心に構成され、晩年の2004年以降に制作された作品まで網羅する。作品点数が絞り込まれることで展企画者の意図(セレクト)が明確に伝わってくるものであった。氏の仕事は大きくそのスタイルからいくつかの時代に分けられる。そしてそれは氏が仕事と生活の場を点を移動するように移していったタイミングとも一致する。この「常設展特別展示〜北に澄み続けた美術家の、五十年をめぐる旅」展ではやはり青森に居を移されてからの古文書を画面に貼付け透明度をもったアクリル絵の具を上塗りしながら画面を構築し、チューブから絞り出したであろうパールホワイトの点を画面上に打ち込む「釘打ち」シリーズや画面に布や紐などのマテリアルを貼付けることで高低をつけ平面性の中に空間的な深部を与えている作品群など様式的にも確立していった過程を中心に小気味よい展示で紹介している。
50年代、60年代の氏の作品に見られる日用品(メジャーや物差しなど)をコラージュした作品、「針供養−A」「針供養−B」と題した注射針を樹脂で固めたオブジェ作品、70年代の気象図や天気図を用いた気象シリーズにおいても、後に氏が古文書を裏返してその意味を判明できないように画面に貼り付けていく手法などにつながる情緒や意味性の排除といった試みの過程が読み取られ興味深い。氏の作品は初期から既製品のアッサンブラージュや貨車に記された識別記号や気象記号などを絵画モチーフに用いたり無機質なものへの傾倒や、記号そのものへの眼差し、古文書を用いながらも解読できないような、もともとの意味を無化するなどの徹底したモチーフの選択と操作がそこには見える。しかし5060年代に多くの作家が試みた同様な動きと決定的に異なるのは、自らが身を置く「場」、そしてその「場」に刻み込まれた時間に対するこだわりだったのではないか。作品は晩年においてますます他者の入り込めないほどのその完成度を見せ付ける。村上作品はある意味で、正確に時を刻む精密時計のようにオートマティックでさえある。そうした徹底した排他性は氏が最後までこだわり続けた東北の風土の中で、消し去ることの出来ないこの地に澄むものの宿命として引きずり続けねばならない過去(考古学)に逆に眼を向けさせながら、「場」への執着から生まれる研ぎ澄まされた眼差しとして現代に投げ掛け続けているように思えた。